中原中也の埋もれた名作詩を読み直す。その41/坊や
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「坊や」は
(一九三五・一・九)と
詩の末尾に日付のある作品で
タイトルも付けられた
完成作です。
前年10月18日に生まれた
長男文也を
モチーフにした詩としては
最初の作品です。
未発表詩篇/草稿詩篇(1933年~1936年)の
後半部に入ったあたりにあります。
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坊や
山に清水が流れるように
その陽の照った山の上の
硬い粘土の小さな溝を
山に清水が流れるように
何も解せぬ僕の赤子(ぼーや)は
今夜もこんなに寒い真夜中
硬い粘土の小さな溝を
流れる清水のように泣く
母親とては眠いので
目が覚めたとて構いはせぬ
赤子(ぼーや)は硬い粘土の溝を
流れる清水のように泣く
その陽の照った山の上の
硬い粘土の小さな溝を
さらさらさらと流れるように清水のように
寒い真夜中赤子(ぼーや)は泣くよ
(一九三五・一・九)
■
子どもを産むということの大変さについて
また、その後の、
乳飲み子の世話から
乳離れ後の子育て全般の苦労について
詩人は
深い畏敬の感情とでもいうべき眼差しをもって
妻孝子をいたわりました。
この年の末、1935年12月30日の日記に、
夜明け、鶏鳴を、坊や目覚めて独り真似てゐる。やがて、母親を起さんとす。「ホラ鶏が鳴いてるよ」といふ気持で、一生懸命母親を起さんとすれども、母親は眠いのなり
――と、赤ん坊への慈愛に満ちた眼差しとともに
妻へのいたわりの心を記しています。
日記にこう記した日よりも
ほぼ1年前、
すなわち生まれた直後に制作した「坊や」で
詩人は
これと同じ感情を歌っているのです。
□
「坊や」の制作日である1935年1月9日は
中原家の次男
つまり中也の次弟・亜郎の命日でもありました。
この詩が書かれた原稿用紙の隅には
横書きで
ArÔ Boé/Sancta Maria/Ondarayasowaka/Denkyodaishi
――というメモ書きがあり
それは「×」で抹消されているということです。
(新編全集第2巻・詩Ⅱ解題篇)
ArÔは、「亜郎」
Boéは、「坊へ」
Sancta Mariaは、「聖母マリア」
Ondarayasowakaは、サンスクリット語の「Om Tarayasvāhā」
Denkyodaishiは、「伝教大師」
――ではないかと推定されています。
一つの詩の読みに
原稿用紙の隅に書きおかれたメモ書きが
重要なカギとなるという
このようなケース自体がスリリングです。
□
「坊や」という詩に
亜郎の死の影があるのだとすれば
詩の読みは
俄然、変質を余儀なくされることになり、
読みは深まってゆきます。
この詩は
第一子の誕生を
寿(ことほ)ぐ歌であるばかりでなく
人の誕生には
人の死のイメージが重ならざるを得ないという思いを
抱き続けてきた詩人の
独特の死生観みたいなものが
流れていることになります。
□
新しい生命の誕生が
死のイメージを喚起するということが
詩に現れる例としては
このほかに
「秋岸清凉居士」
「誘蛾燈詠歌」があります。
大岡昇平も
ここのあたりを熱心に追求し
「この時期は盛んな『在りし日』の氾濫があったらしい」
と記していることも広く知られています。
□
以上のことを踏まえて読むと
この詩で繰り返される
「清水が流れるように」
「流れる清水のように」が
最終連第3行で
「さらさらさらと」と修飾されているのが
「在りし日の歌」の「一つのメルヘン」へと
つらなっていく流れであることが理解できるでしょう。
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