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例えばそれはCMのような

私は考えすぎるたちだ。何でもかんでも頭で考えて、何もできなくなったり勝手にふてくされて逃げたりする。被害者意識も人一倍高い。それでも相手のあることだとただじっと我慢して嵐が過ぎ去るのを待つようなところもある。そんなことをしているととても生きづらくなるので、例えば白いものを黒だと言われても「そうですかー、黒ですかー」とか言いながら、いつか黒だったと気づく日が来るに違いないと思ってやり過ごす術も覚えた。いいのか悪いのかは知らない。

そんな面倒臭い性格ゆえ、ひとつのことで悩み始めると何もかもがだめになる。どの瞬間もその暗い闇の中から味わうことになるので、楽しいことを見ないふりしたり、何かと面倒なことになる。とにかく苦しいだけだ。

本を読むのが好きで、乗り越えられそうもないしんどい気持ちに陥った時にはなぜか吉本ばななの本を読む。その時の悩みのタイプによって、物語を読んだり、エッセイを読んだりする。
今回はひたすらにエッセイを読んだ。(なんなら落ち込む度に読んでいるので内容もざっくり頭に入っているのに、だ)彼女はきっと公の日記なんかには載せられないほどの苦労をしているだろうし、体もいつでもしんどそうで、想像しただけで入院できそうなレベルだ。それでも文章は重くならず、大変だけどその事実に囚われていないように思える。想像すらつかないほどの大変なことがある中でもその中に小さく光る幸せのカケラ、みたいなものを、それが見えた時だけでもちゃんとまっすぐ受け取っているような感じがするのだ。悲しむのはあとでいい、今はこうやってこのカケラを味わう瞬間なんだ、と流れるように受け取っている。

とっても悲しいことがあったとしても、それに飲み込まれてはいけない。私もわかっているはずなのにうまくいかないことが多い。死ぬまで続く、修行なのかもしれない。
こんなに辛いならもういつ死んでもいいと信号を守らずにずんずん歩いていた頃、悲しみにくれすぎて自分を粗末にしていたら、食べ物の味がわからなくなって仕事ができなるかもしれないと思ったことがある。(料理を作る仕事をしていた)シェフに半泣きで「味が...わかりません...」と言った。悲しかった。その時は台風が来ていて雨風が強く、何の気なしにその雨の中を歩いていくおじさんを見ていたら、風にあおられておじさんの傘がひっくり返った。その時、久しぶりに笑った。元から傘がひっくり返る人を見るのは好きなのだけど(趣味が悪い)、その時に「ああ、まだ私笑えるんだ」と暖かい気持ちになったことを思い出した。負の気持ちのプールに自分を沈めすぎてはいけない、というか、わざわざ自分でそのプールを悲しみで満たさなくてもいいんだと思った。またすぐに泣くとしても、一度笑えたら自分をまた信じることができる。力一杯もがかなくてもいいけどわざわざそのプールに水を張り直すこともない。

遅ればせながら3月のライオンを読んだ。ここにもたくさんの救いがあった。厳しい局面でも落ち込みすぎない、かわいそう...と思わせすぎない、私のようにどんどん落ち込みたいタイプの期待を何度でも裏切って救ってくれる。いつでも猫はおなかを空かせてそこにいるし、モモちゃんは大福にガムを入れたがる。

そういうことだ。多分、そういうことがこの世の中なんだ。今悩んでいることも5年も経てば思い出せなくなっているだろうし、ちょっと旅行に行けば気分は軽くなる。どうせなら明るい方を向いていたい。その方が楽しいから。やっと気がついたのだから、何度でもその呪いから自分を剥がして歌うように生きて、おもしろかった本を閉じて眠るように死にたい。(叶わないだろうけど志は高い方がいいに違いない)

吉本ばなな先生、羽海野チカ先生、本当にありがとうございます。

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