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読書感想 鷺沢萠 ケナリも花、サクラも花

鷺沢萠さん
1968年生まれ
ご存命ならば、ぼくの妹と同じ年齢
である。
いまは、鷺沢さんも妹もこの世には
いない。

ケナリ(れんぎょう)

鷺沢さんが韓国へ半年の語学留学に
行った際の、心の体験記、紀行文
いや、心の独白かもしれない。

鷺沢さんは、祖母さまが韓国の血を
もつ、クオーターであった。

両親はお父さまがハーフ(帰化したのかな)お母さまは日本人で
パスポートは日本国であった。
戸籍上は日本人である。

1993年に、渡韓したが
そのころの、外国人登録法では
外国人登録の更新の際、指紋押捺、外国人登録証の携行が義務であった。

ぼくも子どもの時から押捺した口で
この小説が書かれた以降
1994年か95年くらいだったか
押捺は廃止され、署名に変わった。
であるが、鷺沢さんにはその義務はない。

いまでは、韓国と日本の交流は
政治的な理由(思惑?国益?)を除けば
文化、芸能が国と国をスラリと
越え、韓国の歌い手、俳優などが
日本の趣味の領域に入り
食文化も、ごく日常の風景になった感も
ある。
垣根や壁は見えにくいものとなっている
とも言えようか。


偶然であるが
鷺沢さんが、ソウルに留学している時に、一週間の日程で
ぼくもソウル、釜山、済州島と
パスポート上の祖国に墓参りに行き
初めて祖国の土を踏んだ。

ほんの一週間程度であったが
作中に登場する、在日三世
(へジャさん(恵子さん)が

「うちらは、日本におったら日本人
ちゃうねん、そやけど韓国に来たら韓国人とちゃうねん」と言う場面がある。

これは、ぼくもその短い期間で同じことを思ったのを思い出した。
読みながら
「うまいこと言うなー」と思ったが
なんのことはない
ぼくも、その地で
同じことを思っていたなと
うんうんと頷いた。

僑胞(キョッポ)という言葉が出てくる。

これは在外国に暮らし
その文化で育ち、言葉を話し、思考も
在外国、例えば日本なら日本語で
行い、生計を成す
全ての在外国の韓国、朝鮮人に使われる
韓国、朝鮮本土の人から呼ばれる総称である。

僑胞は同胞ともとれるが
彼国の人からすると
頭に、在日や在米、在どこどことつくので、厳密には同胞とは区別されていると
在日韓国人三世のぼくは思う。 

たった一週間であったが
民族の血は、まぎれもなく韓国と思うも
やはり、風習や習慣が日本と異なるの
で違和感と言いようのない寂寥感を抱いた。

韓国のパスポートを持っているのに
なぜハングルが読めない?
なぜ話せない?
という圧力も感じた。

鷺沢さんは、日本人であるのに
タクシーの運転手から
「僑胞ですか?」と問われ
答えにつまり
「どちらでもありません」
と言うシーンがある。
ここは考えさせられた…
「そうです」と言えばそれで話は済む。
しかし、「そうです僑胞です」と
言えないところに
かえって、鷺沢さんの体に流れる 
1/4の韓国の血と、帰化したわけでなく
日本人として育った血との葛藤が 
あったのだろうか…

いまとなっては
知る由がない。

ぼくの、叔父は故人となったが
よく言ったものだ。

「俺らは草は草でも、根無し草や」

「ここ、(日本)で生きる術しか知らんけど、日本人とちゃう。
そやけど向こう(韓国)を
ある時に意識しても、今さら、向こう
では、住まれへんのや」


21世紀も四半世紀が過ぎた…
現代の僑胞をみて鷺沢さんは
どういった文章、心の独白を
書いただろうと思うと…

「なんで、自殺なん?鷺沢さん
それはないで鷺沢さん…」
と思った作品だった。

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