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エモい論〜私なりのエモーショナル〜




エモいとは一体何だろうか。

私なりのエモーショナルを考えてみる。





インターネットの言葉が現実世界に



昨今、ネットスラングが少し遅れて世に広まり、大勢に使われることが増えているように感じる。


例えば、
「厨二病(中二病)」とか、一人称の「ワイ」とか「オワコン」とか「リア充」とかetc…

この辺りが受け入れられることを、今よりも幼くて、インターネットの世界に触れはじめては止まらなかった頃の私は全く気づいていなかった。

そんな入り浸っていたわけではないけれど、ネットの面白さに気づくのが同世代の友達よりも多分少し早くて、比較的ネット歴長め人間になってしまっている。(その分プチ黒歴史的なものも多いし抹消したい)

顔も見えない人たちが生み出して使っている独特な用語を見かけるたびに、意味を調べて咀嚼する、でも自身は生活の中で使うことはないということを繰り返していたので、ネットスラングな言葉が現実世界で流行り出したときはゾッとする部分もあった。


「え、これ言ってて大丈夫なやつ…???」と、
子供ながらほんのりネット民だった知識的なものが働き、謎に心配をしていたときもある(笑)(誰)





かわいい や エモいの多様化


かわいい や エモい など、便利な言葉や表現は多用されていく。
それは悪いことではない。(と私は思っている)

可愛いには、見目麗しい、愛おしい等々色々感情や意味があって、それをまとめるものが「かわいい」だと思うし、

「エモい」は、言葉で表せないような哀愁漂う場面などに使われていることが多い。最近は、褒め言葉的に絶妙加減を表す意図で「エモい色!」「この組み合わせエモい」とも使われたり、懐かしく感じる≒自身の過去に現在の心情を投影して使われることが増えてきた。もはや概念である。

「エモい」の幅の広がりかたや、使われ方がだんだんと「懐かしいあの頃を思い出す」「絶妙な良い具合」「雰囲気がある」的な感じになっているわけだ。


言葉は使われ方によって様々な形へ変化してくし、間違った使い方が次第に定着して、それが言葉の意味として追加されるときもある。

言葉の多様化と、意味の変化は、どんどん進んでしまう。
正しいとか正しくないとかを学んで、知ったうえで、自分の心地よいようにつかえるのがいちばんいいんじゃないかなあ、と思ったりする。




ちなみに私は音楽やネットが好きで、エモいという言葉をたぶん今流行っているよりも前から聞いていたし、知っていた。でも使ったことはなかった。



言葉との向き合い方 と 私の「エモい」の入り口


言葉には意味がある。
でも、先ほど述べたように、使われていく中で変化していくものもあるし、言葉の芯の意味は人それぞれの発し方や捉え方によって違う。
それを否定すべきものでもない。しかし、意味が違うからこそ、他人が同調するものでもないし、されたいわけでもない。
感覚や解釈が違うのを無理に擦り寄せると、ぶつかったりもやもやしてしまうことが多いので、「そんな捉え方もあるのだな」と認識するだけでいい。



前置きが長くなったが、ここからは、「私なりのエモーショナル」について語りたい。私なりのエモいを説く。
誰にも邪魔されない、私だけのエモーショナルを________






エモーショナルを感じたあの日



私が初めて、エモいを体感したのは
かれこれ5年ほど前のことである。


(エモいを説くうえで、少し自分語りが入ってしまうがそこは多めに見て欲しい。)



私は音楽が好きだ。
そしてSHISHAMOというバンドが好きだ。

そんな大好きなSHISHAMOのライブのなかには、野外音楽堂という場所で行われるライブがある。都市部ながらも緑が多く、時間の流れを肌で感じるような野外の会場で、とても気持ちが良い。
私は、SHISHAMOがライブを開催するたびに参加するし、ライブハウスもホールも好きだけど、
いちばん大好きな会場は野外音楽堂である。


そんないちばんの会場で開催されるライブに足を運んだことが「エモい」の始まりであった。
(SHISHAMOの公式HPやおすすめのライブ映像等をリンクさせているのでよければ覗いてみてね)





ライブの開場時刻(だいたい16:00〜17:00)はまだ夕方である。
(だいたい開場して1時間後にライブがスタートする。)(開場と開演の違いはここ)

またこのときは、日差しが眩しく、自身の番号が影であることを祈りながら席を探す。
整理番号順ではなく、席が決まっていることからいつも開演ギリギリまで外でダラダラしてしまいがちだ。





しばらくすると 開演時間が訪れ、会場BGMが止む。
騒々しかった会場全体の視線がステージに引き寄せられる。

SEと共に私たちのスターが目の前に現れたら、ライブはスタートだ。




ライブは、聴き馴染みのある曲で始まったり、聴いて驚けスタイルで新曲で始まることもある。
セットリスト(曲順)を考える場に一度立ち会ってみたい。きっとにやにやする。




会場は野外だから開放的だ。
客席に屋根はないし、虫の鳴き声も聞こえる。空の色は駆けるように変わる。

私が野外音楽堂でのライブが好きな理由は、
この開放感や、時間と共に流れる空間の移り変わり、そして座席がある からだと思う。




そしてライブ半ば、とある曲が終わるそのとき_


歌詞は全て受けとって、後奏が放たれる。







「あ、これだ」





掴みたいのに掴めない、独特の浮遊感と胸の臓を締めつける力が、私の感覚を丸呑みする。








その空間に、言葉はいらなかった。

心も言葉もぜんぶ音と一緒に空気に溶け混じっていった。昇華されていった。


心の器から全部溢れてしまうのだ、やわらかくてあたたかくて、わたしのキャパシティよりもすべてがおおきい。



エモーショナルとはこういうことなんだと、
言葉をニュアンスでしか理解していなかった自分が露頭する。


言葉も動きも何もいらない。
ただそこに存在するだけで、澄む感覚とその場の風に酔いしれていくのだ。




どうしても、言葉だけであの感覚を伝えることは難しいけれど、あれこそが私が抱く「エモーショナル」なのだと心から言える。


あの場で、エモーショナルを感じた私は、
自分のこの気持ちや感覚を強く優しく抱きしめていたいと思った。



絶対にだれにも渡したくない、私だけのエモーショナルである。




臓がぞわっとしたあたたかさを伝えてみたいけれど、
無闇矢鱈な共感も意見も要らない。

言葉の表面だけを掬い取られることは望んでいないし、
それによって私のエモいを他の誰かが侵食することは許されない。
私だけが大切に慈しめるのだ。








エモいで溢れるこの世へ


私は、懐かしいとか雰囲気がお洒落とか、それをエモいとは思わない。
大体の意味はわかるし、多くの人がこういう感覚やニュアンスで使っているんだろうなあ、という俯瞰的目線でほんのり理解している。




懐かしい、愛おしい、可愛い、言葉にし難い気持ちetc...

人それぞれエモいがあり、口癖のように軽いものあれば、どうしようもないくらい重いものものもあると思う。


否定はしない、けれど一緒にもしない。




お願いだから、この大切な欠片たちを一緒くたにしないで。
それぞれの感覚を大切にしたらいいじゃない。




あとがき 、的な


私は私の得た感覚を大切にする。

私があまり、口に出して「エモい」って言わないのは、
あの日抱いた大切な気持ちや空間と思い出を、自分の宝箱のような引き出しにちゃんとしまっておきたいから。そしてときどき、手のひらの上で愛おしみたいから。

粗雑に扱って壊してしまいたくないから。

なんてったって全国不器用グランプリに選ばれそうなくらい不器用だから、
大切なものを丁寧に扱いたいときは、慎重に優しく、包んで大切にして、ときどき思い出すようにして覗いて、ほっとするサイクルを重ねていくしかない。


ていうか 普段(?)過ごしている毎日や、日常生活のなかで、エモいと感じる場面はたぶん私にはやってこない。私の感覚がこう在り続けているうちはきっと。


良いとか悪いとかそういうのじゃない。

自分がそう思えばそれで良いし、そうじゃなかったら共感も何もしなくていい。

自分だけの、自分なりの感覚を大切にしたらいい。


私なりのエモーショナルは、こんな感じだったけど

これを読んでくれている人も、
自分なりの、自分だけの エモーショナル があると思う。


深いところまでいけるのは自分だけの、
大切な宝物を、たっぷり愛してあげてほしい。




私なりのエモーショナル__  佐伯








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