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ノーベル賞受賞への夢を 九月十四日

 今日から週末である。噂によると、この国は週末になるとみんな働かなくなり、首都機能が一切停止するという状況が起こるらしい。これから、楽しみである。
 さて、私はドイツ語が他の人に通じているように書いてきているが、相手の言うことの五〇パーセント程度、自分の言いたいことの半分も言えていないのである。その状況を打開するために、毎朝勉強している。ドイツにいれば自動的にドイツ語がうまくなるということは、今までの生活から判断すると、ありえなさそうだ。まあ、ある程度は慣れがくるが、ドイツ人みたいにしゃべれるようになることは無い。
そこで、先ず私に必要なのは、文法。文法は実家から持ってきた本があるので、これを毎日やればよい。その上で、音読。これが決定的に欠けている。これに対しては新聞を音読していくことにする。一日の新聞を隅から隅まで。すべて読破したら、次の新聞を買うことにしよう。新聞はここでも安い。一,三〇ユーロだけである。日本でフランクフルトアルゲマイネ新聞を買おうとすると、八重洲ブックセンターコーナーに行き、一週間分を一六〇〇円で買わなければならない。(インターネットでダウンロードすればタダだけど)
 後は、作文能力。ドイツ語作文は私の苦手とするところ。これも、毎日練習していこう。
 まあ、ドイツに来ているのだし。家にこもって、喫茶店にこもって読書にふけっていたり、文法をやり続けたりしてももったいない。そんなのは日本でもできる。ドイツにいるのだから、ドイツを感じないとね。ドイツ語は書物の中だけにあるのではなく、ドイツの街中にあるのだから。これは日本人の犯しやすいミスかもしれない。
(鎖国後から外国の知識欲を開放され、外国文化を書物を通じて必死で吸収してきた歴史的な土台があるからしょうがないかもしれないけどね。現に小難しい文法事項は知っているが、英語はまるっきり喋れない自分がいるし。日本では英語を喋る機会はまったく無いけど)
 先ず、今日もいつもと違う道から中心街に行くことにする。今日は湖のある線路の反対側から。いつものKochRobert StrasseからKreuzbergringにはいり、Guenter bahnhofから線路をくぐり、Heidebrand strasseに抜ける。目指すはLebonscher Park。
外は息が白くなるほど寒い。まだ九月なのに、である。池に行く途中の橋から川を見つめる。川は写真にもある通り、セメントで覆われているということは無い。というより、自然に近い形で川を残している。フランクフルトの川はそうではなかったが、ここではいわゆるビオトープを再現している。洪水には弱い気がするが、見ていて気持ちがよい。実家近くを流れる引地川とは雲泥の差である。
 池のある公園も非常にすばらしい。白鳥や鴨がいて、みんなくつろいでいる。その後、行った事ない町Grone(グローネ)に行く。静かな町。外国人は全くいない。カフェに入り、スモモを焼いたケーキとコーヒーをもらう。二百円くらいである。日本のケーキセットは倍位するのだが。
 その後、ドイツの墓を回り、ドイツの専門学校の校舎に入り、本屋に入る。品揃えがすごく、朝日新聞や日経新聞、クレヨンしんちゃん(もちろんドイツ語)など、ほとんどの日本の漫画が置いてあった。ドイツ人からすれば、日本の漫画は非常に人気が高い。日本といえば漫画と連想されそうである。日本文化の高みが漫画とみなされていそうで怖い。
● 旅は人生における最良の勉強である(ドイツのことわざ)
 電車に乗って隣町にいこう。そして、ゲッティンゲンを客観的に見てみよう。駅に行きインフォメーションで
「ゲッティンゲンの隣の駅を教えてください」
 というと、
「意味が分からない」
「僕はゲッティンゲンの近くの町に行きたい。一番近くの町はどこだ」
 と聞く。
「そうか、どっち方面か?」
「どっちでもいい、とにかく一番近いところだ」
「そうか、じゃあ、Nöten-Hardenbergがある」
「いくらだ?」
「俺に聞くな、駅員に聞け」
 という横柄な職員。日本の「緑の窓口」の駅員も横柄だが、これには匹敵しまい。Nöten- Hardenbergは絶対に畑の中にある町なので、次のNortheimに行くことにした。
 
 期待していなかったからか、非常にいい町である。外国人がいない静かな街。中心街の旧市街はやはり綺麗。
 Wer sein Unrecht verheimlicht, hat kein Gedeihen, wer es aber bekennt und verlasst dem wird Versöhnung.
訳:自分の不正を隠す者は何も進展しない。しかし、その不正を認め、それを拭い去るものこそ、仲直りができるのだ。
 というのが石像の前に彫ってあった。不思議な町であった。
 
 その後ゲッティンゲンに帰り、ゲッティンゲンのノーベル賞受賞記念展示会に行った。歴代のゲッティンゲンのノーベル賞受賞者を街を上げて称えている。一人一人の説明を受けているうちに、ゲッティンゲン大学がすごい大学であることを再認識した。ノーベル賞受賞者を多く輩出する大学、ここでの勉強は日本の大学とは違うであろう。私が受賞するためにはどれくらい距離があるであろうか、どのように、どれくらい、どこで、どのような、勉強をすれば……。ガラス越し、目の前にあるノーベル賞を眺めながら、どうにかして私の物にしてみたいものだと妄想してみた。ノーベル経済学賞受賞を目指すのなら、今の勉強法では無理であろう。人生をかけて勉強していかないと無理であろうね。


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