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いつもの

言いたくなる言葉の中で、実際には言いたくないものの一つが、
「いつもの。」
である。

よく行く喫茶店やバーで「いつもの。」と言う姿に憧れはあるが、それを言い続けてしまうと、今日は"いつもの。"気分じゃなくても、店員が気を遣って、「今日もいつもの。でいいですか?」なんて言われた日には、「じゃあ、いつもので。」と言うしかない。また、店員に覚えられるくらい来ているという事実をその一言で周りに知られてしまうことが恥ずかしくなってしまう。

喫茶店に行ったとき、そこはおばちゃんが一人で切り盛りをしていて、僕はアイスコーヒーを頼み、テーブル席に座った。すると、目の前のテーブル席に七十歳くらいのお爺さんが座り、カウンター越しのおばちゃんに、
「いつもの。」
と言い、僕はそのお爺さんの年齢を考えると、何十年も通い詰めた結果の"いつもの。"注文なんだろうと格好よく見えてしまった。しかし、おばちゃんを見てみると、確実に"いつもの。"がわかっていなさそうに見えた。おばちゃんは聞こえていない振りをすると、お爺さんが、
「朝にも頼んだやつよ。」
と言い、おばちゃんは明らかにわかっていない様子だったが、これ以上お爺さんに恥をかけたくないという気持ちからだろうか、おばちゃんはこう言った。
「コーヒーとトーストでしたっけ?」
一世一代の賭けだった。僕はどうなるのかと固唾を飲んで見守っていた。すると、お爺さんは、
「違う、違う。」
とおもむろにメニューを見だした。おばちゃんは賭けに負けたのだと僕はおばちゃんの顔をよく見れなかった。そして、お爺さんはメニューから目を離し、
「コカコーラ。」
コカコーラ!僕は声を出して復唱したい気持ちを抑えた。このお爺さんは朝と夕方にコーラを飲むのか、そんなコーラお爺さんのことをおばちゃんは覚えていないのかと。

決してそんなことはないだろうし、僕の考えすぎなのだろうが、変な空気を感じてしまい、いてもたってもいられなくなり、アイスコーヒーを一気に飲み干し、会計を済ませた。

一気飲みしたからだろうか、急に尿意をもよおし、トイレをしているときに、「いつもの。」という言葉は絶対に言わないでおこうと決意した。

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