引き際 ~乃木大将の殉死~

 ひと月前、夏目漱石の「こころ」を読んでいた時、乃木大将の死、というものを初めて知った。これは学校の課題でよんだ。課題になるような本だから、誰が読んでも一定の解釈ができる本、ということになる。
 ひと月前に私なりに解釈したようだと
『殉死とは死者とのつながりを求める行為であり、自己の独立性を謳う現代とは到底相容れない。よって先生は現代的な精神の体現者ではなく、Kこそが現代的な精神の体現者ということになるが、その人の行く末が若くして自死ということは、漱石自身、現代的精神を否定も肯定もしていないように思う。』

 そうして今日森鷗外の「阿部一族」を読んでいたら、乃木大将の死をきっかけに書かれたということで、はからずとも乃木大将の死、に巡り合った。

 司馬先生の小説を読んでいると、殉死や切腹というのはよく出てくる。武士道の精神は江戸幕府の引き際にもみられ、江戸時代に数世紀にわたって大きな争いがなかった理由の一つには、多くの人が集団の和を重んじていたからだと思う。
 無論、その功罪がない訳もない。私も、過去を美化したくない。
時代が変わっていく中で、彼等もまた過去を古き良き時代と、現代の、欧米的な、独立した自己との中で人々の、それぞれの心がなくなったり、うまれたりする。それは乃木大将の死が、先生を殉死という武士的で”古い”ものに駆り立てたように、数字で隔たれた時は変わることができないけれど、私たち人間のこころはずっと変わらずにいられる、ということを先生は体現しているのかもしれない。古きこころは、引き際がない。


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