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ポストコロナとウィズコロナ

私の担当している広報メディアで、2月に落合陽一さんを取材した。

筑波大学の教授、童顔のメディア研究者であり、時代の洞察者、かつアーティスト。

もちろん名前は知っているが、彼の主張をつぶさに知っていたわけではないので、近著『2030年の世界地図帳』をあわてて読み、また、ウェブサイトからの記事をあさり、旧知のライターで、週刊アスキー元副編、かつ大学のサークルなかまという心強い友と共同で質問票をつくり、インタビューに臨んだ。メディアの寵児であり、先鋭的なひとだから、魅力的な言説をひきださなければと少々気負いつつ(でも取材の現場で編集者は船頭でしかないからね。船をこぐのはインタビュアーだから)。

その詳細はここでは書かないけど、朝一(8:00am)という取材にもかかわらず、体温が低いようでいて、エッジの効いた話を展開してくれて、私としてはミッションをはたしたかな、と思う。朝特有のもやっとした様子から、あまり気乗りしていないのかと思ったら、インタビュー後のマネジャー氏によると、「気持ちよく語っていましたよ」とのこと。

そこで、初めて彼の口からポストコロナとウィズコロナという言葉を聴いた。取材した2月中旬、わたしたちはまだコロナウィルスを対岸の火事のように眺めていたはずだ。

今までいくら旗振りしても、リモートワークやテレカン(オンラインミーティングを彼はこう言っている)が進まなかったのに、コロナでようやく普遍化しているなんて。。。という趣旨のことを言っていた。

そのとき、わたしにはまだ実感も何もなかったのだが、2週間後から徐々に、彼のいったとおりの世界がわたしたちを覆い、多くのワーカー(少なくとも交通や流通、小売、医療、保育、介護、肉体労働にかかわらない人々)がいっせいにそうなった。

なんだろう。niftyサーブでピーガガガガガガガ…と日経テレコンで記事検索したり、メールアカウントを初めて得られて業務連絡したりした時代の変化より、もっと大きな転換だ。ものすごい速度でわたしたちはこのバーチャルな、彼のいう「デジタルネイチャー」な世界に引きずり込まれている。

わたしは、そのインタビュー時、どうしても実感することができなくて、「ネット上のバーチャルがリアルを本当に超えられるのか」と聞いたのだが、たぶん何回もそう聞かれたのだろうし、なんでそんな当たり前のことを聞くのか、という顔でかれは論駁していたのだった。

いまでも、オンラインミーティングはリアルを越えているかというと、それはなんともいえないのだけど、別の機能として確実な欠くべからざる手段になっている。生身の人同士が醸す空気やお互いに引っ張り合うようなあの手応えには及ばないけど、「明解な目的」にのっとったコミュニケーションはかなり、むしろリアルより効率的、あるいときには親密感をもって、また、暴力的な圧迫感がない平和な感覚で展開できる。

対等に、フラットに、エフェクティブにシェアしたい知識や情報や視覚的体験には、このやり方はむいているし、これからのわたしたちの生活の多くを占有していくだろう。

ただ、すべての世界がそこに行くのではないと思いたい。ナマの感覚とともに、並行してバーチャルな、デジタルネイチャーシチズンになっていくという感じだろうか。

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