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銀座花伝MAGAZINE vol.4

# 400年パワー、注入!  アマビエ和菓子「萬年堂」編

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歩行者天国が3ヶ月ぶりに再開した銀座。こんなにも空が広かったか、、、と思わず空を見上げる人々。手探りで始まった老舗専門店は、生き残りをかけて次のステージへのチャレンジです。銀座で新しく起きつつある「日本文化が持つ美意識」をお伝えするページ。今や「美意識」は経営や企画の判断基準に欠かせないテーマです。400年という時間のふるいをくぐり抜けた「日々の暮らしを豊かにする美意識」にあふれる街・銀座。あなたの幸福感を満たす新たな「美のかけら」を発見していきます。


夜明け前から店主が工房に立ち、一つ一つ和菓子を手がける「銀座萬年堂」。江戸時代創業の歴史を持つこの店は、江戸元禄の象徴「見立て文化」(和歌、俳句などで、ある物を別の物とみなして表現すること)に端を発して「ダジャレのネーミング」や「どこかユーモア」に飛んだ魅力の和菓子屋として有名です。歌舞伎座や観世能楽堂等観劇の差し入れや、イベントでの引き出物など「おめでたい席には必ず登場する」銀座では知らない人はいないという人気和菓子店。                                                                                     今回のコロナ禍でこれまでの注文が全てなくなり、銀座5丁目のコアビル内の路地にある老舗の軒先からも人影が消えました。しかし手をこまねいてはいられないと江戸期以来413年の店の継続を祈り、手掛けた疫病退治祈願の「アマビエ和菓子」。そこに込められた老舗店の熱い思いを追います。

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1 平和な日常に祈りを 創業400年萬年堂

「萬年堂」が創業した江戸時代・元和といえば、徳川家康が「大坂夏の陣」で豊臣家を滅ぼしたことによって、応仁の乱以来の150年近くにわたる乱世の終わりを告げた年です。【元和偃武】(げんなえんぶ)「元和に武を賦(ふ)せる」つまり平和な世の到来を意味した元号が付けられた事で、

「やっと乱世が終わった。これからみんな幸せにくらすぞー」 

と、開放感に胸膨らませる時代到来でした。

もともとは、京都三条にて「亀屋和泉」を名乗って商いを始め、御所、所司代、寺社等に菓子を納め、当時は生菓子、干菓子、餅菓子から出発して、各種料理の仕出し屋のようなこともしていたと記録に残っています。 

     ↓出入りの際の書き物には、仕出し屋の様子も見て取れる       (萬年堂蔵 絵右下)

歴史萬年堂

江戸「創作の時代」に生まれた「見立て」菓子
元禄時代になって高麗餅(御目出糖のルーツ)を創り始めますが、高麗餅は、もともとうるち米粉や黒砂糖そして小豆をまぜて蒸したお菓子で、古代朝鮮高麗から伝来した菓子のために「高麗」の名が付いたと云われます。
元禄時代は文化芸術が大いに発展した「創作の時代」と呼ばれました。世相も新しい商品とネーミングを歓迎する風潮があったために、先代は「赤飯に見立てて」それに似せた「高麗餅」を手がけたと伝えられています。

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クリエイティブな時代背景の中、萬年堂の強み「見立て」「ダジャレ」の花が大きく開いていきます。

元禄年間「創作の時代」と言われる理由

江戸時代前期(17世紀〜18世紀初め)の文化をその元号に因んで「元禄文化」とよび、上方(京都や大阪)の豪商を中心に発展しました。
ちょうど農村において作物生産が著しく発展して、それを基盤とした町人が経済力をつけたことで、産業や経済活動がすこぶる活発になりました。それに伴って大和絵や浮世絵、浮世草子、人形浄瑠璃、歌舞伎、俳諧などが著しく発展しました。こうして小説の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門、それから琳派を代表とする尾形光琳、浮世絵の元祖・菱川師宣らが登場して、肉筆浮世絵「見返り美人図」などをつくり浮世絵の黎明期を迎え、目覚ましい〈創作の時代〉を迎えることになります。勢いのある時代の象徴として、日本の高度経済成長期(1960年代)を指して「昭和元禄文化」という言葉も生まれています。
工芸部門の、陶器の野々村仁清(にんせい)は京焼きの色絵を完成し、尾形乾山(けんざん/尾形光琳の弟)は琳派の陶器部門を担い、水墨画を思わせる銹絵(さびえ)等自由で大胆な作風を確立しました。また仏教彫刻の創始者・円空の登場など、まさに創作の黄金期を迎えます。

燕子花屏風絵図 / 尾形光琳

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ダジャレから生まれた「御目出糖」(おめでとう)

そうした空気感の中で生み出された「御目出糖」菓子の呼び名は、先代の遊び心のダジャレから付けられたとか。現代においても「祝い菓子」として、萬年堂のルーツ菓子として銀座はもとより日本全国に愛好者が多い銘品です。昔から夜明け前から工房に立つ代々の店主が、ひとつひとつ大切に手作りしています。

↓あたかも「赤飯」のように見立てて作られた様子がよくわかりますね。

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幸せを呼び込む アマビエ和菓子

萬年堂アマビエ

江戸時代に疫病退治の妖怪として活躍した「アマビエ」。今が出番と、21世紀の銀座に蘇りました。店主自ら江戸時代の資料を引っ張り出しての力作。嘴(くちばし)が黄色いのがなんともチャーミングです。        この6月から一日も早いコロナの終息を願って、疫病を鎮めるとされる江戸時代の妖怪「アマビエ」和菓子が発売されました。新しいキャラクター生和菓子の発売で「幸せを呼び込める」ことを願いつつ、令和時代を生き続ける老舗の姿です。

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今から400年前、戦乱の世が終わり市中に開放感があふれた江戸元禄時代。明るい時代を迎える前の乱世は希望を失った閉塞感に満ちていました。その様は今の日本の状況とよく似ています。ようやく再生し元禄時代を超え、徳川時代の太平期を過ぎた後には、世界観が変わるような明治期の文化大転換が待っていました。そして関東大震災、東京大空襲ではその度に店舗を消失し、そしてまた再建を繰り返し、この400年は困難の繰り返しだったことが窺い知れます。何度でも立ち上がり、やり直し力強く生き続けてきた老舗「萬年堂」。

13代目樋口店主は、

「いつの時代も、その時代の皆様に喜ばれる和菓子を求めて、お客様に親しまれる新たな形、食感、味を生み出し続けてきました。何度でも400年知恵パワーを注入してがんばっていきます」         

ようやく店舗の再会を果たした老舗には、「待ってました!」とばかりに季節の生菓子を求める人々が。少しづつ、次のステージが始まっています。

太陽と花


2 芸能の風を運ぶ 「扇子」  老舗 宮脇賣扇庵

夏も間近となれば、何と言っても日本ならではの美「扇子」の出番となります。銀座には現代に至るも芸能文化が色濃く残っているため、それを支える扇子屋は銀座人にとっては文化レベルを示すアイテムを見つける大切な場所。人気の逸品を求めて本来ならば人が押し寄せる季節ですが、今年は自粛の影響で、賑わいはまだまだ先になりそうです。


銀座らしい夏のそよぎを演出する「銀座扇子」、柳をあしらった小ぶりの扇子は、銀座人には人気の品です。筆者愛用の銀座豆扇子は、バックに入る大きさで美しい朱色仕様です。

銀座扇子


老舗「宮脇賣扇庵」をご紹介しましょう。

銀座七丁目と八丁目の間にある花椿通りと昭和通りが交わるところに、「ときめき橋」という名の橋がかかっています。銀座界隈から新橋花柳界への入口の橋として昔から知られ、現実の世界から風流な文化世界へ「こころときめく」気持ちを表した橋です。ときめき橋を渡ると、料亭吉兆をはじめ老舗金田中、新喜楽等日本を代表する料亭が建ち並ぶエリアが出迎えてくれます。100年を超えて文化の発信地となっている新橋演舞場もこの地にあります。明治政府の要人たちに愛された高い芸風を誇る新橋芸者の発表の場“東をどり”が披露される舞台として知られています。

銀座芸者(新橋芸者とよぶ)衆は現在30名余。厳しい稽古によってよりすぐられた芸者たちは、銀座八丁目見番(けんばん)通りにある稽古場で、芸を磨く毎日です。そんな芸者衆も愛用している舞扇や扇子。正に芸を完成させるためには無くてはならない美の格を決める道具です。そんな大切な扇子をもとめて芸者衆が通うのが、ときめき橋のすぐ脇にある創業147年「宮脇賣扇庵」。屋号は明治期に日本画家富岡鉄斎によって、賣扇桜という京の銘木にちなんで付けられたと云わっています。

↓新橋演舞場での「文化を遊ぶ」 新橋芸者の舞扇

新橋芸者3

ところで、ご存知のように扇子には大きく分けて薄板を貼ったもの、紙をっ
たもの、絹等布地を貼ったものがあります。もう少し詳しく見てみると日本の文化芸能や風習にはいつも扇の存在が欠かせないことに気づきます。

夏扇(なつせん)…涼を取る、装飾用
舞扇(まいおうおうぎ)…舞踊用
茶扇(ちゃせん)…茶道用
能扇(のうおうぎ)…能や狂言に用いる
香扇(こうおうぎ)…香道に用いる
豆扇(まめせん)…人形や置物などの装飾用
祝儀扇(しゅうぎせん)…冠婚葬祭時の礼装用の小物として用いる
有職扇(ゆうそくせん)…儀礼用 主に宮中や神社仏閣などで用いられ

                      ↓能扇

宮脇 舞扇

今年は感染自粛により、毎年開催されていた「東をどり」舞台も中止。太平洋戦争で中止になった以来の残念な出来事に、芸を頼みに暮らしをたてる芸者の皆さんや日本舞踊や三味線などの芸の師匠、料亭、置屋さんなど、その影響は計り知れません。

そんな中でも少しづつ出足が戻り始め、最近ではファッションにこだわる男性の扇子選びも盛んだとか。「特に男性は、骨の部分にこだわる方が多く、材質由来や絵柄の物語を尋ねる方が増えています。〈日本文化〉への波動が少しづつ起きていることを実感し、嬉しくなりますよ」と長年番頭役を務める扇子マイスターの増渕さん。

前出の萬年堂のご店主との扇子と和菓子の「父の日ギフト」にも挑戦。

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縁起物の瓢箪には、「命」や「健康」ー幸せを運ぶーという由来があります。父の日に限らず、この季節扇子の涼しい贈り物は喜ばれそうです。

波音


3 能のこころ  古事記

古事記

編纂から1,300年という時を超え、面白さでは「日本書紀」を圧倒するといわれる「古事記」。日本最古の神話は、この国を創ったとされる神々と人間が織りなす栄光と鎮魂の物語で構成されています。地上に強大な国を築き、やがて滅びていった「出雲」、初代神武天皇東征の終着点「大和」。
そこには一貫して滅んでいった人々への優しいまなざしがあります。

石風景

実は,「能楽」の根本にはこの「滅び行く者への鎮魂」が脈々と流れています。世阿弥も「古事記」「海幸・山幸」の物語を題材に「鵜羽(うのは)」を作品にしています。
鵜羽葺不合尊(ウノハフキアエズノミコト)の誕生譚を海女(実は尊の母の豊玉姫)が、九州は鵜戸の岩屋を訪れた恵心僧都に物語るというストーリー。
もとを辿れば、よく知られている「山彦・海彦伝説」の山幸彦が釣針を魚に取られて、竜宮まで探しに行ったその先で豊玉姫に出会い、契りを交わして子を宿す。宇土の仮小屋で、御子を出産することになるが、仮殿を鵜の羽で葺き終らぬうちに御子が生まれたので、その名を「鵜羽葺不合尊」と名づけたという由来に基づきます。

その物語を能の演目に沿って、少しご紹介しましょう。


脇能物 女神物「鵜羽」 世阿弥作

【物語】
当時の天皇に仕える臣下が勅命により神代の古跡を尋ねて日向国鵜戸(神話縁の地)の岩屋へ参詣すると、海辺の仮屋に鵜の羽を葺いている二人の海士と出会う。女たちは神代の昔を追懐し神徳を偲ぶ風情。勅使が鵜の羽を葺き残したままの仮屋の理由を尋ねると、女は鵜羽不合尊(ウノハフキアエズノミコト)の誕生説話を語り、鵜の羽を葺くことの謂われを「ふくもの尽くし」に語る。
さらに勅使が千珠・満珠の玉の在処を尋ねると、女は自分が豊玉姫であることを暗示して消える。(中入)鵜戸の岩屋の浦人から神代の古跡たる鵜戸の岩屋の故事を聞き、松陰に旅居して神のお告げを待つ勅使の前に、龍女豊玉姫の神霊が現れる。山海増減の満ち干の玉を讃えて舞い、なおも霊妙な満ち干の珠の威徳を示し、妙法を願って海中に消える。

この能の見どころは、後シテで豊玉姫が登場して、山幸彦が、竜宮で豊玉姫の父龍王から貰った満珠・干珠の玉を海に置くと、彼女は自らが持つ海の力の証を恵心僧都に差し出し、真如の玉こそほしいと願う。そして一瞬にして潮の満ち干が現出する奇瑞を現す、という名場面。


〽さてまた今度は満珠を潮干に置けば.......  の「謡」の後に続く


ー序の舞ー 能楽師の力量が試される見せ場です。


そして恵心僧都に、宝珠を捧げて仏法の真理を求めて、豊玉姫は海に消えて行きます。
神代的な前場、大自然の驚異を見せる後場、それらも最終的に「仏法への賛
美」となって結実するという結末を迎えます。

波


【廃曲になった悲劇の演目】
しかし、この能「鵜羽」には曰く付きの物語があります。この曲を音阿弥(おんあみ/観阿弥の孫、世阿弥の甥にあたる)が舞っている最中、甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入して、将軍義教を暗殺してしまいます。その後、不吉を気にした歴代の将軍は徳川綱吉以降上演をしなくなり、ようやく平成3年に、「復曲能」として上演されたという歴史を持ちます。 将軍義教といえば、世阿弥を疎んじて徹底的に閑職に追いやり、遂に佐渡へ島流しにし、その上後継者であった息子の元雅を暗殺させた人物。世阿弥の能「鵜羽」鑑賞中に殺されたという史実の皮肉には流石に驚かされます。

350年余りの長い歴史の空白から蘇った世阿弥の「鵜羽」。難解さもあり、その間の芸の継承も途絶えたことから、能楽師泣かせの演目といわれ、なかなか鑑賞する機会に恵まれない点は残念なことです。

海岸線


4  ESSAY     おうちで和歌散歩 古事記の歌    

             ー歌や詩を暮らしの中に取り入れるー

もともと詩歌は、地球上のあらゆる民族にとって、その民族の言語誕生と共にありました。日本の大和言葉をみても人の感情(喜怒哀楽)や祈りの最も大切な表現手段だと云う事が分ります。更にその詩歌を声に出してみると、心の中に不思議な高揚感が生まれる事に気づきます。
詩人の故大岡信さんによれば、「“目”が“声”を呼び起こす時はじめて、詩
歌(作品)は真に具体的に読者一人一人のものになる」からだと述べています

日本最古の歴史書「古事記」の中には、110首あまりの歌が残されています。万葉集は歴史観を受け継ぐという点においは【古事記】を受け継いでいると云われています。《古事記》の記述が33代推古天皇(すいこてんのう)で終わり、「万葉集」の歌が34代舒明天皇(じょめいてんのう)から始まっている事を見ても明らかです。しかしながら、《古事記》から「万葉集」に採取された歌はたった一首あるのみです。不思議な話ですね。

合唱


本日はその古事記から、一日一歌(詩)

      君が行き  長くなりぬ。
      山たづの  迎へを行かむ。
      待つには待たじ。

             —————古事記 ソトホシノミコの歌———

《意訳》 あなたの旅も、日数が重なって参りました。今はもう(山をたづねるという山たづの木ではないけれど山をたずねて)お迎えに参りましょう。このまま待ってなんかいられません。

コスモス

ソトホシノミコが、伊予の湯に流されたカルノミコを思慕して歌った歌。日本最古の温泉の一つといわれる道後温泉。《古事記》には禁じられた同母兄弟の恋愛の地としてその名が見えます。二人はここで再会を果たすと、共に自害したといわれています。この歌は《古事記》のために新たに創作された物語歌で、唯一《古事記》から「万葉集」に採録された珍しい歌だと言います。
古事記から万葉集に歌が継がれなかった理由について、奈良大学文学部教授 上野誠氏は『「万葉集」の歌は現代の私たちの感覚に近いものとして受け止められているが、万葉の人々にとっての《古事記》の歌は、感覚として「古めかしい」ものとして映っていた事が採録されたなかった理由ではないか』と推察しています。(「古事記歌謡と万葉歌」芸術新潮より)

さて、その背景には何があったのでしょう?

日本人の底流に流れる物語(DNA)を魅力的に指し示してくれる「古事記」。 ワクワクする楽しい謎解きに溢れています。

しま


5 銀座情報 天然資源の危機とかんざし かなめや

コロナ禍で景気が後退する中、江戸時代中頃に創業の長崎県の老舗「べっ甲細工専門店」「江崎べっ甲店」が6月中に閉店するニュースが飛び込んできました。国有形文化財に登録されている店舗が取り壊しになるという残念な内容。閉店の理由は、売上げの減少はもとより、原材料(タイマイ)の不足が大きな打撃になったようです。
今や、国内ではべっ甲業者や専門店の倒産や弊店が続いています。

そんな中、銀座のべっ甲専門店老舗「銀座かなめや」も他人事ではありません。
べっ甲の原料として使われるウミガメの一種「タイマイ」は94年にワシントン条約で輸入が完全に禁止され、「江崎べっ甲」に限らず、「銀座かなめや」もその後は在庫を加工しながら販売を続ける状況でした。
貴重な天然資源相手の工芸品故、これまでも厳しい経営が求められています。そんな状況を打破するための工夫として「かなめや」は、「かんざし専門店」として象牙や他の原材料へ移行して制作する工夫をここ数年試みてきました。新橋花柳界の芸者衆のかんざしの拠り所となった老舗は、今新しい日本の工芸文化を目指して「新たなかんざし」にづくりに舵を切り始めます。(次号に続く)

かんざし


6  編集後記(editor profile)

前号でお伝えしました、老舗「銀座伊勢由」の古典柄手作り涼マスクには、嬉しいことに多くの皆様から応援の注文が入っているようです。

本当に、ありがとうございます!

伊勢由の女将からも感謝のメッセージが届いています。

心強いエールをいつも送っていただき、感謝感謝です!」

その商品が生まれてきたストーリーを愛でながら、商いの檜舞台でしのぎを削る銀座老舗たち。

◉唯一無二。    ◉なかなか手に入らない。

銀座には「本当に欲しいものはなかなか手に入らない、だから価値がある」そんな合言葉が息づいています。

今日も最後までお読み下さりありがとうございます。

           責任編集:【銀座花伝】プロジェクト 岩田理栄子

〈editorprofile〉                           岩田理栄子:【銀座花伝】プロジェクト・プロデューサー         銀座お散歩マイスター・マーケターコーチ 東京銀座TRA3株式会社代表取締役          著書に、「銀座が先生」芸術新聞社刊 がある。

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