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銀座とジャズと色の仕事と。

縁のある街


思えば、静岡県沼津市出身の両親が、

若かりし頃、銀座でモボ・モガだった頃から、
(次女の私は細胞として存在さえしていないけど)、
とても縁のある街なのかもしれない。


ジャズとの出会い


高校3年の頃だったか クラスの友達に
誘われ て初めて「ジャズ喫茶」へ行った。

音楽好きの父が家で聴くビッグバンドジャズとは違い
その店で ピアノトリオやカルテット、又はピアノソロのレコードを聴いた。

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1度目は あまりピンとこなかったが、
暫くすると そのアンティークな雰囲気の店に流れる
モダンジャズにはまった。(その後別のジャズ喫茶でアルバイト)

思えば、私が初めてピアノを習ったのは
13歳くらいで遅い。
近所にピアノ教室があったから
すぐ習いたかったが、行けなかった、、。

というのは、思春期のお年頃。
イボというものが、手の甲にはじめて出来てしまい
治るまで行く気にはなれなかったのです。


ピアノの音が好きで せがんで習わせてもらったものの、
指のレッスンの為のバイエルやクラシックに
なぜか楽しさが感じられず挫折。

ピアノからエレクトーンへ

数年後に、探した 銀座松屋の裏辺りの
「アテネポピュラーピアノ」(当時ジャズピアノを教えているところは
殆どなく)へ通い始めた。

が、担任の先生が根っからのクラシック魂の人だったので、
楽譜通りに引かないとご不満。

私は耳がジャズ喫茶で慣らされていたので ついフェイクしてしまい
楽譜通りには、弾けず目をつけられてしまい
2年弱で、やめる。

もうピアノは無理、と断念して リズム・音色が自分でアレンジできる
エレクトーンに転向。

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長く続けていくと、曲はボサノバやジャズになっていく♪
ゆくゆく演奏者になれたらなぁ〜、と考えていた矢先に、
結婚して山梨で喫茶レストラン経営をすることに。

(全く弾く時間なし、そして指は動かず。)

結婚1か月後に喫茶レストランオープン

甲府から車で15分くらいの幹線道路沿い十字路で
駐車場20台、店内は2フロアー。
1つは、明るくパーラー風。白い丸テーブルと白い籐の椅子。
床は、薄めのグレーとピンクのピータイル。

1段上がったもう1つのフロアーは、アンティーク風。
こげ茶のフローリングに、テーブルとイスは木目がわかるくらいの茶色。
イスの張地は、カーキ色のビロード。

店内で使う食器などは、河童橋などで選んだ。

BGMは、CD10枚チェンジャーで、好きなCDをセット。
注文を受けて、作って、運んで、下げて、レジして、洗って
と、慣れない土地ながら 忙しくも充実していました。

5年後に1人娘誕生。出産は7,8時間かかりました。
3歳までは、人に預けないで母親と一緒にいるもの、
との親族のアドバイスで、しかたなく店の裏の自宅で
すごしました。

遺産相続問題からまた東京へ


そして8年経った頃に、遺産相続問題が、、、、、。
3男の嫁(私)はよそ者、長男次男の嫁は地元。
義父母が続けて亡くなると、手の平を返すような
陰険ないじめが。

元々、義父が東京にいた3男を呼び寄せたくて
オープンした店。
でも、応援してくれていた義父はもういません。

・・・そして、東京で再出発することにしました。

がむしゃらだったので、当時のことはあまりよく覚えていません。

色彩スクール


そして、生活が落ち着いた時に、「色彩検定」と出会います。
ビビッときて、まず通信教育で3級取得。
この先は、専門学校に通ったほうがいいと思い
本屋さんへいって(その頃はググって調べることはできません。)
いくつかある学校の中から選びました。

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  (2年通った懐かしの原宿駅)

1年目は、夜間にしました。
1人娘が学校から帰って来た時の様子を見たかったので。
そして2年目に、やっと「パーソナルカラー」。

試験も宿題も、結構ハードで没頭しました。
卒業して講師試験を受けて、晴れて講師となりました。

が、講師人数も多く 定期的に仕事があるわけではありませんでした。
1人1人が、個人で仕事を作り出していかなくてはならない世界です。

パーソナルカラー診断だけでは、続きません。

心理学スクール


娘は、自分の考えていることを、伝えるのが苦手で
親子のコミュニケーションもスムーズではありませんでした。
私は、カラー診断をしていくうちに、「色と心は繋がっている?」
とお客様と接して感じるようにもなっていました。

そして、当時自由が丘にあった『日本メンタルヘルス』に
通い始めます。
遠方から来ている方、教師など年代職業も様々でした。
今や有名人の〈魔法の質問〉のマツダミヒロさんとも
一緒に勉強したことがあります。

やはり成功する方は、パッションが違うと感じました。

そこで約2年くらい学び「基礎心理カウンセラー」取得。

高級基礎化粧品会社の代理店?


ある日、日曜日の新聞広告欄を見ていたら、
「色の仕事」、いう募集を見つけました。
なんだろう?と訪ねて話を聞いてみると
ノエビア化粧品の代理店募集でした。

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なぁんだ、私はメイクもお手入れも興味なしと
帰ろうとすると、
「パーソナルカラーは今までの4種から、ノエビア独自の3種に
変わるかもしれません。」
!?
パーソナルカラーの専門家としては、聞き逃せません。
さらに、
「代理店になると、毎月プロから知識や技術を無料で
教えて貰えるセミナーが自由に受講できます。
代理店、となってますが化粧品を無理に販売しなくてもOKです。」

そして更に加えて、
「代理店を辞めるときは、登録料10万円は返金されます。」

それなら、知らないことをタダで学ばせてもらって
済んだらやめれば、なんのリスクもない?
と、好奇心も手伝って、代理店になってみました。
そして、毎月 銀座並木通りにある本社へ通うように。

気付けば、あっという間に7年も経っていました。
本物志向・職人気質のメーカーは
私にあっていたのかもしれません。

人に教えるも嫌いではないので
傘下もできて、使って良い商品は販売も出来て
表彰もされて、海外旅行へ何回か連れて行って頂きました。

でも、ふとある日我に返ったのです。
【わたしの本業は、パーソナルカラリスト】!と。

いつまでもぬるま湯につかっているのは、やめよう。

それまでも、カラーやメイクやスキンケアレッスンなどを
単発不定期に独自開催していましたが、
再スタートの区切りでなにかしたいと思い、
好きな銀座で、セミナーをすることにしました。

その時使っていたブログ、FB、ストリートアカデミーなどを駆使して
開催1か月前から、1人で日々コツコツ宣伝、お誘いしました。

当日は、20人ほど集まって頂けました。
撮影、受付など友人に手伝っても貰えました。

銀座は私にとって特別な街


カラー診断の備品一式は、移動持ち運びが大変です。
どこか借りよう、とあちこち探して自然光の入りを重視したら
なんとノエビアと目と鼻の先にある「銀座ビジネス倶楽部」。

これって絶対偶然じゃない、やはり銀座に呼ばれてる?


(だって沼津で祖父が1代で創業した自動車販売会社を、
銀座4丁目にホントは移転する予定だったんだものね。)


老舗、最新、文化、アート、ファッションetc。

歩道が広く通りが真っ直ぐだから、迷い子になりにくい。

いつ訪れても私に、パワーとパッションをくれる街。

そんな熱量の高い銀座は、私のなかでは「大好き!」を超えている街。

ずっと愛すべき街です♪

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