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3に満たない次元

ある考え、いや感覚を昔から持ち続けていて、
それは、
そういう考え方もあるな、とか
理屈にすぎるとか、考えすぎだなどと、
言われて終わるような、
些細で、奇妙で、分かち合えない類の代物、ではある。
 
いわゆる、この世界、自分たちのいる世界、
自分たちが認識している世界が、
「3次元ではない」という、感覚、感性なのだが、
今日はかいつまんで、要点だけ述べてみようかと思う。
 
この世界が三次元世界で、それはまさに現象界といわれるもので、
それを超え時間軸を足した4次元だとか、本質的に高次の世界の入口である5次元からは、見劣りのするお粗末なものであり、
そのことは、一次元的なミミズや二次元的なアリに比べれば高次元である我々の世界を起点として、さらなる高みを空想してみれば、
そのお粗末さが少しは分かる、
という物言いは、もうありふれたものと成って久しい。
 
ところが、私は、ここが三次元だとは、
子供の頃から思えなかった。
ませた子供で、小学校に入った頃にはすっかり理科大好き少年で、
中学にもなれば科学啓蒙書などを読み相対論だの宇宙の始まりだのに思いを馳せもした。
しかしそんな知識や空想以上に、私には自分の知覚や感性に並々ならない興味があって、感じていることを正確に把握し、そして科学でも論理でもなんでもいいから使って、的確に表せないものか、
などと考えて少年期を過ごした。
 
特に、感覚で得ていることと、頭や心で認めているものに、
ちぐはぐさと言うか、辻褄の合わなさを心の片隅でいつも感じていた。
 
我々は、3次元に住んでいる3次元の生物だと言うけれど、
どうしても、3次元的に世界を感得しているようには思えなかった。
少なくとも、
三次元的な座標を理解し、3次元空間的に位置や形を認識しているけれど、
「三次元的に物を感じている」ように思えなかったのだ。
 
この意味、
分かってもらいにくいことは重々承知している。
 
何しろここでの読者も、「私の半分」と同じように、
一般通念や常識で、世界に縛られているから。
 
けれど、私は、自分の感じていることと、認識や知識の間に、
非常に大きなズレを感じていた。
ささやかなズレではあるけれど、
そのズレを、拡大鏡で増幅して意識を集中させ覗き見ていた、
といったほうが正しいかもしれない。
 
 
持って回った言い方になり、
話が進みにくく成ってきたので、
とりあえず、テンポをあげよう。
 

先程、三次元として、
座標的に、位置や形、奥行きなどを感じている、といった。
しかしそういう風に強調したのは、まさに、
そこに、漏れている情報があって、
それを認識できないもどかしさが、
少年期の私を苦しめ続けていたことを思い出してのことだ。
 
その欠けている情報、認識できない世界とは、
内部であり、厚みであり、深度なのだ。
 
一個のリンゴがあるとしよう。
そのリンゴを見るとき、
その表面の赤い皮や、その皮の局面を視覚で認識する。
また、食べたときの経験やナイフで切ったときの内部の断面を
想像しながら、リンゴの把握に補足することも頭の中ではやっている。
 
しかし、リンゴの内部、リンゴの中のその奥行き、
リンゴの中の状態や感触は、全くわからない。
ナイフで切った断面も、結局切り開いた「断面という表面」でしかなく、
本当に、「内部を内部として」感じたり把握することは出来ないのだ。
 
そう考えると、少年の私は、ある種恐ろしくなるとともに、
逆に、表現しようのない畏怖のようなものを感じるように成った。
 
私の見ているもの、感じているものは、
全部表面でしかなく、外見でしかなく、
「中身を中身のまま」に
「存在を存在のまま」に
感じることは出来ないのだ。
 
表面、外観、位置、形、などなど、
あるいは経験上や知識で知った内部に関する間接的な知見しか、
私たちは持ち合わせていないし、経験できない。
 
そう思いながら周りを見渡せば、
いわゆる三次元空間と言われ、
自分が存在している世界とされているこの世界が、
なんとも驚くほど「薄っぺらい」と感じてしまったのだ。
 
表面や外見だけが、間接的に要約された情報だけが、
世界との関わりなのだ、と思ってしまったのだ。
 

有名なアンドリュー・ワイエスの描いた「クリスティーナの世界」という作品がある。
http://kagirohi.art/kabega2676/wp-content/uploads/2019/02/Andrew-Wyeth-Christinas-World-1920x1080.jpg
人間の視覚認識では経験できない特別な経験が得られるとともに、
通常の自分たちの経験と、その絵画を見るときの感覚のズレを知ったとき、
経験世界の成り立ちに、小さなヒビが入るのを感じられるはずだ。
この絵画は、当時としては魔術のような超精密描写で、
驚くほど丁寧に、隅から隅まで、クッキリと描かれている。
そしてそれは人間の視知覚では絶対にありえない遠景と近景で完全に焦点があった見え方を提示する。しかもその画題は深い遠近感を持った枯草原で、
絵画を目の前の近距離定位置で観ることと、画題が相反しもする。
だから、経験知と認識、世界認識と知覚、
絶対に見えるはずのない一望完全焦点化された画像
などによって、我々の意識がグラグラと揺さぶられてしまうのである。
 
その時、本当はそのように世界は緻密であり、
自分が見ているものは、「見ていることには成っていない」ことを知る。
 
先程、薄っぺらい世界しか認識していない、といったが、
それに加えて、ごく一部しか知覚し認識していないことがわかるのである。
 
たとえば、ワイエスが描くのと同じように、
緻密に内部まで作り込んで彫像を作る彫刻家はいない。
ロダンは、内部の臓物まで想像しながら粘土をこねていたとは聞くけれど、
それでも、骨や内臓、血管、皮膚や薄い粘膜を再現しながら彫刻作品を作るものはいない。
 
彫像は、内部のない外見だけをかたどっているのである。
 
言うならば、平面上の輪郭だけのシルエットと同じように、
彫像は「外観という影」なのである。
 
 
認識や世界、虚構と現実などをめまいがするほど幻惑的に描き続けたSF作家、フィリップ・K・ディックの、金字塔的三部作の一つに、
「パーマーエルドリッチの3つの聖痕」という作品がある。
 
火星移住の探査?をしているステーションの住民の話なのだが、話の流れや組み立ても非常に面白いのだけれど、ディック作品の注目すべきところは「道具仕立て」の妙が上げられる。
 
火星のステーションは一種の流刑地のようでもあり、母なる地球から切り離され、過酷な労働と厳しい環境の中で、人々は現実を忘れることを楽しみとして過ごす。
その現実からの逃避の方法はドラッグでありドールハウスなのだった。
 
彼らは、強力なドラッグを服用し、ドールハウスに注視しながら、
自分の欲求する幻影の中に没入していく。
そこで服用されるドラッグが「キャンD」と言われるもので、
学生時代に読んだとき、その名前の驚くべき皮肉に対して惜しみない賞賛がこみ上げたものだった。
 
「キャンD」とはすなわち「キャンディ:飴玉」ということなのだけれど、
どこにも書いていなかったが、
私にはディックの意図することが見えたのだ。
 
つまり「キャンディ:飴玉」という物体は、
「表面だけで出来ている」のである。
キャンディには表面しかない、
「キャンディは人間にとって内部がない」のである。
 
どういうことかと言えば、
キャンディをなめるときの経験は、舌が飴に触れて、
少しずつ溶かしていき、その存在がなくなるまで、
最後の最後まで「表面の経験」が続き、
言うならば、
飴玉というのは人間にとって「表面の集積体」なのである。
 
表面の集積体というものは、深い虚構の世界に誘うドラッグの暗喩でもある。リアリティのある経験ではなく、虚構の中に際限なく浸っていく、
浸れども浸れども、薄っぺらい幻影の表面しかない「アヘン窟」として火星のステーションが描かれる。そこにギミックに満ちたまがい物の聖者が現れる。。。

表面、虚構、内部のない存在、内部の経験できない世界。
存在の輪郭だけがある世界。

この世界、この経験世界がもし本当に三次元だと言うならば、
三次元的に、存在の有り様をその存在の有り様のままに、
表面ではなく「全的に」感得できないものだろうか。
 
世界だけでなく、人も、何故、一部であり表面でしか関われないのか、
という、
普通なら、疑問にも、悩みにもなりえないような、
この世の大原則のような【非対称性】に、
私は悩み続け、
哲学的、宗教的な探求をするように成っていった。
言い方はかなり違うが、
多分その悩みを超えた領域を「実相」と言うのだと、思っている。
 
 
三次元にいながら、
「真に三次元的」に、この三次元を体験し味わえない我々。
 
そもそも、その真なる三次元に、近づき、啓かれることが、
三次元を超えることのように思う。

それが完全にそれであるとき、
すでにそれは、それ以上なのである。
 



 


 
 



 





 

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