極上の生活
眠れない。このところベッドに横になっても全く眠気がやってこない。静かに目を瞑ってはみるものの、一向に明日になる気配はない。
眠るという行為とはどんなものだったか。健康な人間であれば考えなくていいことを考えてしまい、それにより不健康が促進されるという負の矛盾が、今夜も幕を開けようとしていた。
試合開始の合図を押さえ込もうとせん私の気持ちとは裏腹に、眠気は私を置いて遠く知らない街に旅立ちの準備を進めている。
仕事は確かに忙しい。残業時間では足りず、自宅に持ち帰り仕事をしなければ間に合わない状況だ。しかし、過去にもこんな状況は経験したが、その時は不眠症に悩まされるなんてことはなかった。
テクノロジーの高成長により、大量の情報が目まぐるしく行き交う現代社会。それに必死に食らいついていかんとする私の脳は、今までにないくらい疲弊しているようだ。
オンとオフの切り替えスイッチがバカになってしまったらしい。投てき直前の槍投げの選手のような興奮状態が続いてる。いつまでも頭がギンギンに冴えきっているのだ。
まさか日に日に便利になる社会の進歩の代償が、不眠症という決して喜ばしくない形で自分の身に降りかかるとは、夢にも思わなかった。いやむしろ、私は今夜夢を見たいのだ。
「ダメだ。今日も全くダメだ」
私はベッドから起き上がり、テレビをつけた。もちろん見たい番組などないし、闇の中を思考という波に乗りながらゆらゆらと漂っていたので、現実世界の今が何時なのかも定かではなくなっていた。
テレビはよくありそうなバラエティ番組を映し出していたが、すぐさまコマーシャルに切り替わった。いつもならただ呆然と眺めるだけだが、その一言に私の目は釘付けになった。
「あなた、今夜も眠れないのではありませんか?」
思わず、あぁそうなのだ、とテレビに返事をしそうになっていたのを、なんとか制す。
「そんなあなたの声に応えるべく、ピエール社が技術と知能を結集し、次世代の快眠マシンを作り上げました!」
画面ではベッドで仰向けになっている女性が、その快眠マシンとやらに頭を預け、心地よい寝顔をつくっていた。
マシンという呼び名からイメージがつい硬化してしまうが、映像を見る限り、枕と同様の弾力と適度な反発性があるようだった。
「しかもですよ。決して驚かないで下さいね。なんと無料です。大切なのでもう一度。無料です。本当に無料です。おっと、結局3回言いました」
技術と知能の結晶体ではなかったのか。私は驚いた一方で、無料という言葉の響きが持ち合わせる、疑わしさを感じていた。
「お申し込みはピエール社のホームページまで。現代社会に生きる戦士たちへ、極上の生活を」
快眠マシンのコマーシャルが終わった。
期待と不安が入り交じる気持ちのまま、私はスマートフォンでピエール社のホームページを開いていた。
そこでは先ほどの快眠マシンの紹介が大々的になされていた。売り出し中であることに間違いはないだろう。よく見ると広告の下の方に日付が書いてあった。快眠マシンは販売開始からまだ1ヶ月ほどしか経っていない新商品のようだった。
私はとりあえず注文してみることにした。なにせ無料なのだ。使えなかったらゴミにしてしまえばいい。注文フォームに住所や名前を入力して、確定ボタンを押した。配達予定日は三日後。気がついたら窓の外がぼんやりと明るくなっていた。
三日後の夜。私は自宅へ仕事を持ち帰り、黙々と作業を進めていた。相変わらず私の脳は、投げ槍を右手で突き上げた状態のままで、今夜も休息をとってくれそうな気配は全くなかった。
しばらくすると玄関のチャイムが鳴り、宅配業者によってそれは届けられた。さっそく私は仕事を中断して、梱包を開けてみる。そこにはコマーシャルで見たものと全く同じ、枕型のマシンが入っていた。
表面は乳白色でツルッとしており、手で押すとちょうど気持ちいい弾力が押し返してきた。感触や手に持った時の重みも、やはり一般的な枕と変わりなかった。
こんなものが本当に最新技術の結晶なのだろうか。つい疑ってかかってしまう。届けられた箱の中には説明書も入っていた。
説明書は簡単なイラストを使って商品の説明がなされていた。それは枕を使ったことがない者にも配慮が行き届いた丁寧な内容になっており、ピエール社のホスピタリティの高さに感心した。
最後には『極上の生活を、あなたに。』というコピーで締められていた。
私は快眠マシンをベッドの上に置いた。一応、精密機械を扱うかの如くゆっくりと、慎重に。気持ちの問題だ。もうじき慣れるだろう。ひとまず快眠マシンのことは忘れて、中断していた仕事を再開しなければならない。
今日、快眠マシンが届くことをなるべく考えないようにしていたつもりだったが、仕事の進捗は明らかに悪い。私は快眠マシンの存在に少なからずワクワクしていたようだ。
今日分の仕事をなんとか片付け、私は簡単にシャワーを済ませた。時計の針はもうすでに零時を回っている。
「さて、やっとベッドにつけるな」
快眠マシンに頭を預けて、目を閉じた。
しばらくすると、ゆったりと心地よい何かが近づいてきた。次第にその何かが意識を包んでゆく。それは耳から聞こえてくるものではなく、身体の表面で感じるものでもない。ピンと張りつめた水面に一滴の雫が波紋をつくるように、その何かは頭の内側でふわりと広がった。
じんわりと身体が落ち着いていくのを感じる。それはぬくぬくとした温かさや、ひんやりとした涼しさなどでもない。内側から放たれる波紋が全身に伝わり、頭の先から足の指先まで軽くなっていく感覚があった。
気持ちがいい。自然と呼吸のテンポは、ゆるやかになっていた。何もかも忘れ、ただ私の身体と心の中に、至福がゆっくりゆっくりと、満ちていく。
「……まさに極上の眠りであった。素晴らしい商品だ。なぜこれを無料で提供できるのだろう」
こんなにも気持ちのいい朝は久しぶりだった。ベッドの上で起き上がった私は、組んだ両手を返して上へ大きく伸ばした。身体が軽い。そして何よりも頭の中がスッキリと爽快で、とても気分がいい。
私はベッドから降りると朝食にパンとハムを焼いて食べ、ヨーグルトを流し込む。洗面所で身だしなみを整え、出勤用のスーツに着替えて家を出た。いつもより五分ほど早かった。
目覚めの良さは心に余裕をもたらし、それは言動に変化を与えた。オフィスでの仕事ぶりも格段に良かった。繁忙期はつい刺々しくなる職場でのコミュニケーションも、滑らかになった。
夜、私は家に仕事を持ち帰らなかった。オフィスの勤務時間内に仕事を終わらせることができたのだ。我ながら素晴らしい集中力であった。
それは、自分に鞭をいれて無理やり沸騰させるようなものではなく、月の引力によって満ちる潮のように自然に引き上げられ、仕事が片付くとまた静かに引いていった。
全ては昨夜の充実した睡眠、ひいてはこの快眠マシンの効力だ。今日は寝るまでの時間を使って、テレビ番組を見たり、読書をしたりと、久しぶりの娯楽を楽しむことができた。
夜も良い時間になると、私は快眠マシンに頭を預け、目を閉じた。心地よい波紋がゆっくりと私の意識を包み、身体と心に至福が満ちてゆく。
このような充実した生活が1ヶ月続いた。もう私の生活には、快眠マシンが手離せなくなっていた。一度あの睡眠を体験したら、普通の枕なんかでは眠ることができなくなっていた。
ある日の夜。この日も私は快眠マシンで至福の眠りについた。
だが、私は起きていた。オフィスで仕事を終え、自宅へ帰ってきたところだった。
「今日の夕食もお任せで頼むよ」
「了解しました。お任せください」
アシスタント装置が音声をキャッチすると、キッチンから六本のアームが飛び出して、夕食の準備を始める。私はその間に着替えを済ませることにした。
「あぁ、今日は水じゃなくてお酒が飲みたい気分だ」
「了解しました。変更いたします」
またアシスタント装置が反応すると、アームは冷蔵庫から取り出したばかりの水を戻し、缶ビールを取り出してテーブルの上に置いた。
私は席につき、缶ビールのフタを開けた。プシュッと音を立てる。と同時に、ビールに合いそうな小料理がアームによって運ばれてきた。出来立ての証に湯気が立っている。いい匂いだ。腹の虫も鳴く。
料理は次々と運ばれてきた。本当に旨そうな品ばかりだ。盛りつけまでも美しい。さて、何から食べようか迷うな。そんなことを考えながら、まず私はキンキンに冷えた缶の口を唇に当て、ゴクッと炭酸を流し込んだ。
そして目が覚めた。
「なんだ、夢だったか」
私はいつも通り快眠マシンを枕にして、ベッドで寝ていた。
「やけに現実的な夢だった。いや、たいていそういうものか。それにしても、とても良い夢だった……」
そしてまた私は眠りについた。この日はもう夢を見ることはなかった。
次の日、気持ちよく朝の出勤前の時間を過ごしていると、スマートフォンに一通のメッセージが届いていることに気がついた。ピエール社からであった。
「オススメ商品のご案内。全自動調理キッチン。アーム六型。これさえあればもう料理の時間は必要なし。自宅がビストロになります。
あなたはオーダーするだけで、最高の食事を楽しめます。これからの時代のスタンダード。ご注文は下記ホームページまで。ピエール社」
私はそのまま、記されていたホームページへ飛んだ。案の定そこにあった商品は、昨日夢に見た不思議なキッチンの姿であった。
「なるほど、そうか。あれはピエール社の商品であったか。とすると、昨日の夢は商品広告といったところなのだろう」
恐らく快眠マシンによって作り出された夢であろう、というところまで簡単に想像できた。なかなか巧妙ではないか。
会社から帰ると、私は普段通り夕食をつくって食べたが、なんだか物足りなさを感じていた。昨夜、夢の中で見た旨そうな料理が忘れられないのだ。しかし、これは致し方ない。食事で気分が晴れなかったので、私は別の娯楽で紛らわし、快眠マシンで眠りについた。
そして朝、目が覚めた。
私はいつものように組んだ両手を返して上へ大きく伸ばした。それを待っていたかのようにアシスタント装置が私に問いかける。
「おはようございます。今朝の食事はいかがいたしましょう」
「うん、昨日は何を食べたのだったか?」
「昨朝の食事はソーセージ、スクランブルエッグにトーストが2枚。それとナッツとドライフルーツのマリネを召し上がりました」
「じゃあ今日はサラダにしよう」
「了解しました。そのように」
キッチンから六本のアームが飛び出し、調理が始まった。私はその間に顔を洗い、髭を剃って身だしなみを整えた。戻るとすでに、テーブルには料理とドリンクが出揃っていた。
現代人の朝はとても短い。このキッチンがつくる料理の味は高級店並みでありながら、早さは回転率のいい大衆店のそれ以上であるのだ。私は料理の味と早さの両立ぶりを、このキッチンの性能の中でも特段気に入っていた。
アームが引いてくれた椅子に腰掛ける。朝の柔らかい光が、野菜の鮮やかさをより引き立てた。さて、今日のドレッシングはどんな味だろう。そんなことを考えながら、私はフォークを手に取り、彩り豊かなサラダに突き刺した。
そして目が覚めた。身体を起こすと正面の窓から朝の日射しが差し込んでいる。
「そうか、また夢か」
私はいつものように組んだ両手を返して上へ大きく伸ばすが、アシスタント装置が問いかける声は聞こえてこなかった。
気を取り直して支度を始めるが、朝食の準備をしているこの時間が無駄な時間のように思える。その上、できた料理はとてもみすぼらしいものに見えた。
私は昨日の届いたメッセージから、ピエール社のホームページを開いて、全自動調理キッチンのページを改めて確認した。
値段を見るとかなりの高額であったが、不眠症になるまで働き詰めだった私だ、買えない値段ではない。私は注文フォームの確定ボタンを押した──。
私はいま、極めて充実した日々を送っている。睡眠はこの世のものとは思えないほど至福の感覚だし、朝の貴重な時間を割いて適当な朝食を準備したり、仕事帰りの疲れから不健康な料理で夕食を済ませたりすることもない。一声のオーダーで、まるで高級ビストロのようなコース料理を味わえる。
さらには、面倒だった身支度も自分ですることはなくなった。移動式のチェアに座るだけで、四方八方から飛び出るアームが着替え、洗顔、髭剃り、歯磨きにいたるまで細かく丁寧にやってくれる。
私はただ、なされるがままに身を任せ、頭を空っぽにしていればいいのだ。
他にもまだまだあるが、ピエール社の商品はどれも画期的なものばかりだ。確かに値段は安いとは言えず、あれほど蓄えていた貯金も底がついたが、それはまた働いて貯めればいい。
ピエール社の商品に囲まれた私の生活は、とても素晴らしいものになっていた。しかしながら『極上の生活』にはまだ足りないものがある。
最近また夢を見るのだ。それは手足を伸ばすと天井から二本のアームが伸びて、全自動で爪切りをしてくれるマシンが……。
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