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保守的であること

どうも、犬井です。

今回紹介する本はマイケル・ジョセファ・オークショットの「保守的であること―政治的合理主義批判」(1988)です。この本は1962年に出版された「Rationalism in Politics and Other Essays」を全訳した書です。

オークショットは、本書の中で、技術的知識と実践的知識が分離不能であるにもかかわらず、技術的知識ばかりを重んじ、実践的知識をないがしろにする合理主義を批判しています。そうした合理主義全盛の時代において、二つの知識の平衡を目指す態度は、まさに保守主義と呼ぶに相応しいでしょう。

それでは、以下で簡単に内容をまとめていこうと思います。

政治的合理主義批判

今日、ほとんどすべての政治が、何らかの道を通って、合理主義的またはそれに近いものになっている。

思うに、合理主義者の一般的な性格と気質を明らかにすることは難しくない。基本的に合理主義者というものは、あらゆる機会において精神の独立と「理性」の権威以外のいかなる権威への義務から解放された思想とに味方して身構える。かれは「理性」によって疑うのが躊躇われるほどの意見・習性・信念には懐疑的である一方で、物事の価値・意見の真理性・行為の正当性を決めるかれの「理性」は疑わない。それゆえ、かれらの精神の態度は、懐疑的であり、かつ同時に楽観的である。かれには、実際の出来事に対して一般論が当てはまる大まかな輪郭を掴む力があるだけで、実際に眼の前に現れているものを綿密、詳細に洞察するための適性がない。

しかし、政治の世界は合理的な取り扱いに全く馴染まない。常に伝統的なもの、状況次第のもの、それに束の間のものによって深く特徴付けられているのが政治なのだから。にもかかわらず、合理主義者は公務の営為にもそれを持ち込もうとする。かれは技術的知識によって、問題の解決を試みる。その知識が部分を全体に取り違え、部分に全体の性質を与えているという誤謬を抱えたまま

過去への態度

「過去」とは「現在」を読み解くある特定の方法である。そして、もし我々が過去の出来事について論じ、書いてきた人々の言説によって導かれるべきとするならば、我々に利用可能な三つの重要な態度は、実践的、科学的、観照的と呼ぶことができる。

まず第一に、我々が過去の出来事を自分自身および自分自身の現在の活動との関連においてのみ理解するとするならば、我々の態度は、「実践的」態度と呼ぶことができる。我々が眼前に生起するのを見る出来事に対する最も普通の態度が実践的態度であるのと同様、我々が現在の経験を証拠としてすでに起こったと結論する出来事への最も普通の態度も実践的態度である。

第二に、過去に起きたと我々が結論する出来事への我々の態度は、一般的に言えば、私が「科学的」態度と呼ぶものである。ここで我々が過去に関わるのは、それが我々から独立しているという点においてである。しかし、「科学的」という言葉には、加えて二つの条件がある。一つは諸々の出来事が一般法則を例示するものとして理解されている叙述であること。そして、科学的理論に現れる世界は、無時間的世界、すなわち現実の出来事でなくて仮説的な状況から成る世界だから、過去に対する「科学的」態度は事実上存在しないということである。

最後の態度は、我々が過去の出来事を認識する様式、およびそれらについて我々が為す発話のこと、つまり「観照的」態度である。この場合、過去とは実践的な「事実」でも科学的な「事実」でもなく、単なるイメージの倉庫である。しかし、「観照」においては、「過去」は過去として現れることはない。そこでは、観照されるのは過去の出来事でなく、現在に対する他の態度のおかげで起きたと考えられるに至った現在の出来事である。ある記憶を想い出すという事とそれを観照する事とは、別々の経験である。

かくして、我々が「過去の出来事」と呼ぶものは、現在の出来事をすでに起こった出来事の証拠として理解する(あるいは理解した)ことの産物なのである。

保守的であること

保守的であることは、すなわち、未知なものより慣れ親しんだものを、試みられないものより試みられたものを、神秘より事実を、可能性より現実性を、無限より有限を、遠いものより近いものを、億万長者の豊かさより不足感がない程度の豊かさを、完全さより便利さを、理想郷の至福より現在の笑いを、好むことである。親しい関係や忠実さの方が、より利益になる愛情への誘惑よりも好まれる。得ることや拡げることは、守ること、育むこと、そして楽しむことほど重要ではない。失うことを嘆く方が、新規性や約束による興奮よりもずっと激しい。

これら全ての事からして、保守気質の人はある独特の結論を引き出す。
革新は確実に損失を、もしかすると利益を、生む。それゆえ、改革案が全体として有利だという期待の証拠を挙げる責任を革新家たらんとする人は負う。
② 革新の芽が状況そのものの中にあるのであって、革新が外側から状況に押し付けられたものでない場合、それが圧倒的な損失に終わる可能性は低い。
ある特定の不均衡是正のために計画された革新は、生活状況の条件を全般的に改良するという理念から出てきたものより望ましい。したがって、かれは大きな無限の革新より小さな制限付きのそれを好む。
④ かれは急速なペースよりゆっくりしたペースを好み、立ち止まってその時その時の結果を観察し、適当な調整を行う
⑤ 他の事情が同じなら、革新のための絶好のチャンスは、計画された変化が計画の中に収まる可能性が最も大きく、望ましからざる手に負えない結果によって損なわれる可能性が最も小さい場合である。

したがって、保守気質は享受という点では熱心で積極的であり、これと対応して変化や革新に関しては冷たく批判的である。

教育と政治学

「政治学」という名の下に、三つの教育水準-ー学校教育、「職業」教育、大学教育ーーのそれぞれにおいて教えられ学ばれるに相応しいことが存在すると考えられる。

学校教育については、まず第一に、誰もが学ぶのに適したものである。何故ならば、学校教育の原則の一つは、それは特別な適応指導をしないということだからである。第二に、資本としてよりも、むしろ観念、信念、イメージ、慣習などのストックして理解された文明の一面への入門となるものである。生徒が、幾何学や代数学や自然地理学以上に特別な有用性への傾倒をもつには及ばないからである。

「職業」教育、つまり政治的活動をするように要請されている人々かそれに携わりたいと願う人々のために特に企画された教育、三つの条件が満たされるときに出現しうる。第一に、現在の生活様式に必要だと一般に認識される、特殊な技能が存在しなければならない第二に、この技能に関して教えることができるものが存在しなければならない。第三に、この技能を使いたいと願い、したがってそれを教えてもらいたいと望む人がいなければならない。したがって、「職業」教育とは、個別化された実践的活動を成功裡に行うに必要な、信頼できる知識を伝えるように意図された教育である。

大学の「政治学」について学部生が携わるに相応しいことは、歴史家と哲学者の思考容態と表現様式について何事かを教えられ、それを学ぶことであり、それを政治との関連のうちに行うことである。しかし、今の大学教育は「職業」教育と区別されていない。「権威づけされた科学」を伝えることで、「現代の重大な政治問題を理解すること」や「政治的議論に効果的に参加したり、政策の重要問題を把握したり、扇動家の追従に耐えたり、独裁者の嘘や詐欺師の約束に抵抗したり、宣伝と真理を区別したのち、情報に通じた批判を公的機関に向けたり、政府の行動を賞賛するために基準を評価すること」ができるように学生を養成している。

あとがき

本書は、七つのエッセイがまとめられた著書です。特にその中の「保守的であることについて」は、保守について詳しく言及しています。その箇所を、もう一度引用してみます。

保守的であることは、すなわち、未知なものより慣れ親しんだものを、試みられないものより試みられたものを、神秘より事実を、可能性より現実性を、無限より有限を、遠いものより近いものを、億万長者の豊かさより不足感がない程度の豊かさを、完全さより便利さを、理想郷の至福より現在の笑いを、好むことである。親しい関係や忠実さの方が、より利益になる愛情への誘惑よりも好まれる。得ることや拡げることは、守ること、育むこと、そして楽しむことほど重要ではない。失うことを嘆く方が、新規性や約束による興奮よりもずっと激しい。

オークショットはこうした保守気質が「人間性」の中に深く根ざしていると述べています。

確かに、私たちは保守的なものに囲まれて生活しています。例えば、住み慣れた村や町、長く営んできた仕事、家族や隣人、変化の少ない日常生活、親子や友人の間のたわいもない冗談など。こうした「慣れ親しんだもの」が私たちの人間性に大きく影響を与えていることは、おそらく多くの人が頷くところではないでしょうか。

逆に、私たちはそうした「慣れ親しんだもの」を失った時に、つまり、日常の活力の源とも言うべきものが失われた時、深い喪失感や疲弊感に襲われます。それは特に現在の状況に当てはまるでしょう。

友人や恋人との仲らい、毎日の仕事や学生生活、食べ慣れた近所の飲食店、面白おかしいニュースなど、私たちの気力の源泉が、人々の交流の制限や不道徳を許さない空気によって侵攻を受けてます。

個人の力だけで、これらを取り戻すには長い時間がかかるでしょう。もしかしたら、もう戻ってこないかもしれない。ならば、それを押しとどめることができる可能性が最も高い政府が、積極的に動かなくてはなりません。国民を支援し、1日でも早く日常生活に戻れるような希望を持たせること、それが本来あるべき保守的政府の姿のはずです。

しかし、実際にはそうなっていない。この背景には、全く保守的でないものを、長い間、保守ともてはやしてきたことが起因しているのかもしれません。

では。

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