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これからの「正義」の話をしよう

どうも、犬井です。

今回紹介する本はマイケル・サンデルの「これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学」(2010)です。この本は2009年に出版された「Justice: What's the Right Thing to Do?」を全訳したものです。

本書では、トロッコ問題など正解は存在しないが、必ず決断を迫られる問いに直面した際に、どのような道徳観や倫理観で、いかなる答えが導き出されるかを論じています。また、そうした異なる価値観にぶつかった時に、どの答えを選ぶかを、私たちに考えさせる内容となっています。

ハーバード熱血教室でも話題になったマイケル・サンデルの代表作を、以下で簡単に内容をまとめていこうと思います。

正義への三つのアプローチ

ある社会が正義にかなうかどうかを問うことは、我々が大切にするもの― 収入や財産、義務や権利、権力や機会、職務や栄誉 ―がどう分配されるかを問うことである。この問いへのアプローチは次の三つがある。

① 幸福の最大化
ジェレミー・ベンサムが確立した功利主義の理論に基づく考え方。正しい行いは「効用」を最大にするあらゆるものだとする。ただし、満足の総和だけに注視するため、個人の権利を無視する場合がある。また、効用を測るための単一の尺度の欠如も指摘されている。

② 自由の尊重
どの人間も自由への基本的権利を有しているとする考え方。リバタリアニズム(自由至上主義)とも言う。自由の名において、制約のない市場を支持し、政府規制に反対する。ただし、この理論が正しいとすれば、近代国家の活動の多くは不法であり、自由を侵害するものとされる。

③ 美徳の涵養
美徳に報い、美徳を促すために財を与えることを正義とみなす考え方。現代政治では、文化的保守派や宗教的右派と結びつくことが多い。ただし、道徳を法制化しようとする考え方は、不寛容や弾圧を招く恐れがあるとして、自由主義社会の多くの市民に忌み嫌われている。

それぞれのアプローチ内での見解の相違や、理念同士が衝突した場合にどうすればよいかについて意見の対立も存在する。政治哲学がこうした不一致が完全に解消することはない。だが、議論に具体的な形を与え、我々が民主的市民として直面する様々な選択肢の道徳的意味をはっきりさせることはできる

先祖の罪は償うべきか

国家は歴史上の過ちを謝罪すべきであろうか。

公式謝罪への反対論の根底にあるのは、我々は自分がすることにのみ責任を負い、他人の行為にも、自分の力の及ばない出来事にも責任はないという考え方だ。両親や祖父母の罪について釈明する義務はないし、さらに言えば、同胞の罪に関しても同様だ。

しかし、こうした道徳的個人主義的な考え方は、欠陥があると私は思う。我々は自分の選択とは無関係に連帯や成員の責務を負うことがあるからである。家族や同胞が互いに負う責任、仲間との連帯、村やコミュニティへの忠誠、愛国心、自国や同胞に感じる誇りと恥、兄弟や子としての忠誠。そうした事例に見られる連帯の要求は、我々の道徳的・政治的体験によく見られる特色だ。そうした要求なしには、生きることも、人生の意味を理解することも難しいであろう。

したがって、自分の行いのみに責任を負うという考え方は、我々が逃れようにも逃れられないナショナル・アイデンティティの議論が、必ずや争点となるであろう。

共通善に基づく政治

正義にかなう社会が善き生についてともに判断することで成り立つとすれば、我々をこの方向に向かわせるのはどんな種類の政治的言説か、という問いが残る。この問いに対し、私からいくつかの具体的なヒントを示そう。私たちが希求すべきは、個人や一部にとっての善ではなく、政治社会全体の共通の善である。共通善に基づく新たな政治には次の4点が挙げられる。

① 市民権、犠牲、奉仕
正義にかなう社会には強いコミュニティ意識が求められるとすれば、全体への配慮、共通善への献身を市民のうちに育てる方法、つまり、公共教育の方法を見つけなければならない。

② 市場の道徳的限界
市場は生産的活動を調整する有用な道具であるが、重要な社会的慣行― 兵役、出産、教育と学習、犯罪者への懲罰、新しい国民の受け入れなど ―を市場に委ねると、その慣行を定義する基準の崩壊や低下を招きかねない。そのため、善の価値を判断する正しい方法について、対立する様々な考え方を公に論じることが必要だ。

③ 不平等、連帯、市民道徳
貧富の差があまりにも大きくなると、富裕層が公共サービスを必要としなくなり、公共の領域が空洞化することで、民主的な市民生活の拠り所である連帯とコミュニティ意識を育てることが難しくなる。

④ 道徳に関与する政治
多元的社会の市民は、道徳と宗教に関して意見が一致しないものだ。しかし、行政府がそうした不一致について中立性を保つのは不可能だとしても、それでもなお、相互的尊重に基づいた政治を行うことは可能である。

あとがき

本書は10年ほど前に、かなり話題になった本なので、当時小学生だった私でもタイトルくらいは聞いたことがありました。今回、自分が持つ正義とは何かを問うために、思考実験がてら手にとってみましたが、自分なりの価値観を見つめ直すことができたと思います。個人的には、愛国心とは何かを考える上で、9章の連帯の議論は特に興味深かったです。

恐らく、私の持つ愛国心とは、日本人であることに優越感を感じるような「自己愛的」愛国心ではありません。私が持つ愛国心とは、自国の言語や文化、慣習に慣れ親しんだことから感じる自国への愛着、つまり「保守的」愛国心です。

私たちは自分が生まれる国や土地を選ぶことはできません。仮に、私が今回のコロナ騒動について、いかに母国の不正義を憎悪し、国民性を嫌悪しようとも、日本語をもって考え、日本の文化や慣習を基礎として道徳的判断を下している以上、こうしたナショナル・アイデンティティから完全に解放されることはありません。

逆に言えば、自国の言語や慣習に愛着を感じ、束縛されていたいと思う保守的愛国心があるが故に、日本が不道徳を働いたり、日本人が卑しくなることに対し、それを深刻に受け止めているのだと思います。日本人が嫌なら、他国に亡命するなり、世界市民を称して無関心を決め込めば良いからです。

グローバリゼーションの問題もまたここに繋がります。自由により良い国を選ぶという自由がある限り、誰も自分の国を良くしようという政治的行動を積極的に起こそうとはしないでしょう。国境の束縛や保守的愛国心とは、人間に積極的な活動を起こさせる前提条件であり、言い換えれば、人生や社会の活力の源泉なのです。

したがって、私は、道徳の実現のために積極的な発言や行動を起こすことが、道徳的だと考えているのです。

では。

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