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「勉強」と「学び」は違うの?(2)

こんにちは!GIFT SCHOOLのカリキュラムデザインと教師教育デザインを担当しています、桐田敬介と申します。


専門は芸術教育の哲学で、上智大にて学習指導要領の作成に携わっている方々のもとで学び、日本各地の幼稚園や小学校を巡りながら、子どもたちの創造的な学びや民主的な感度の育ちを研究しています。


先週から始まりました、GIFTだより。今年4月の開校に向けて、新しい教育に関心のある保護者の方向けに、学びや育ち、子どもとの接し方、さまざまな教育の事例などについてのtips集を執筆しています。家事の合間や、お仕事の合間にお付き合いいただけますと幸いです。


さて、先週はいまの教育学や心理学で前提となっているキソ中のキソの「子ども観」(子どもとはどんな存在かという捉え方)として、スイスの発達心理学者ピアジェの考え方を紹介しました。


今回は、そのピアジェの提起した子ども観に基づいて、これからの教育のあるべき姿について論じた研究者のひとりである、MITのシーモア・パパート教授が設けた二つの異なる「教育観」(知識を教えるとはどのような出来事なのか)を紹介し、勉強と学びの違いについてより深く考えてみたいと思います。


<勉強と学びの違いを示す、二つの教育観>


1986年に、PCが家庭や学校をつなぐ子どもたちの学びの道具になる未来について語るシーモア・パパート教授の映像。彼が開発に携わったレゴロゴを通じて子どもたちがプログラミングについて試行錯誤している様子を映しながら、科学的、数学的な知識も、学齢前の小さな子どもたちがおもちゃで遊ぶパッションと切り離されてあるようなものではない、と語られています。

先週の記事でもその子ども時代のエピソードに触れたシーモア・パパート教授は、現代の学習科学研究の指針のひとつとなるほどに重要な、知識や能力を習得する仕方について、ある教育についての二つの異なる考え方を設けました。結論から言えば、この二つの考え方がそれぞれ、日本で言うところの「勉強」と「学び」の違いに対応するのではないかな、と僕は考えています。


まずひとつは、インストラクショニズム(知識注入主義)という考え方です。この考え方では教育とは、言葉の読み書きであれ身体の動かし方であれ、正しい知識を口で伝えたり、実演したりして、正しい知識がない子どもたちのなかに「注入」していくというイメージです。


この立場に立つと、いわゆる頭の良い子は一を聞いて十を知る、「スポンジのように吸収する子」であると思われるようになるでしょう。いわば師匠のいうことを先んじて理解して行動できる、優秀な弟子のようなイメージです。


ただ、このインストラクショニズムの考え方では、子どもたちが実際に自分の手を動かし、自分の頭で考えてつくり出してはいない知識を「正しい知識」として先生や大人たちが注入していくことになります。


そのため、教えられた知識を「大人から教えられた」ということだけで「正しい」と思い込みやすく(=騙されやすく)、知識を活用する機会を与えられないため、得た知識を状況に合わせて応用しづらくなるという問題点が指摘されています。


もう一つは、コンストラクショニズム(構築主義)という考え方です。この考え方は実は、先週お伝えしたピアジェが発見した「子どもは大人と質の違う知識をつくり出す(=構成する)存在だ」という考え方に基づいて発展してきました *1。


この「構築主義」という考え方に立つと、教えるということもまた違った営みとして見えてきます。結論からいうと、子どもたちが家庭などですでに自ら作り上げた知識を、さらに正確に作り上げる(=構築する)ための環境を整えたり、ヒントを伝えたりして、その知識構築のサポートをすることとして捉えられるようになります。


このサポートを専門的には、「足場かけ」(スキャフォルディング)と呼んでいます。

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たとえば、子どもたちが大きなお城を建てたいとしたら、大人たちはそのお城を作るための説明書や作り方を伝えるのではなく、実際にそのお城を作るための「足場」(=ヒントや環境)を用意して子どもをそこにだんだんに登らせて行くというイメージです。


上の比喩でいう「お城」は、たとえば「化学の実験」や「小説の執筆」など、特定の活動を意味しています。構築主義では、知識は単に教えられて身につくものではなく、それを必要とする活動の中に入り、何かをつくり表現することと同時に(!)深く身につくものだと考えます。


これは大人の日常でたとえれば、仕事で身につける知識と、座学で身につける知識の違いといえばわかりやすいでしょうか。知識は実際に使ってみて、だれかに向けてものをつくったり、表現したりすることで初めて身につくものであるということは多くの人が実感を持って納得できるのではないでしょうか。


そのためこの考え方では、何らかの知識について子どもたちが話し合ったり、プレゼンテーションしたりするだけでなく、具体的な活動に参加して、手持ちの素材をいじくったり、ともに環境に働きかけたり、何らかの作品を制作したりして実際に誰かに向けて表現し、その表現についてともに吟味していくことが推奨されます。


<子どもたちへの接し方を、注入型から構築型へ変えてみる>

まとめると、知識注入主義では、知識は正しく注入されてからでなければ正しく表現できない、だから基本的な知識をまずは教えるという立場でした。


そしてこれはまさに私たちの世間でいう「勉強」に当たるものではないかな、と思います。たとえば英語で使うアルファベットや文法は、実際に人前や社会の中で使う前にドリルや問題集などできちんとその使い方を身につけてからでないと「正確に使えないはずだ」という考え方です。(でも、問題集を何度も解いた典型的日本人の僕たちは、英語を自在に使えているでしょうか?)


対して構築主義では、子どもたちはすでに自ら具体的で感覚的な知識を作り出しており、それらに基づいて抽象的な知識を作り上げる、だから新しい知識を作る活動に参加させ、知識を明確に表現できるようサポートしようという立場でした。


先の英語の例で言えば、アルファベットや文法も、たとえ最初は未熟だとしても、お礼のお手紙や実験のレポート、また詩や小説を書くといった、「実際に使ってみて表現してみる」ことを通じて次第次第に時間をかけて身についていくものだ、という考え方です。


僕がこの記事で考えたいこと、そしてオススメしたいことは、学校や社会が、子どもたちへの接し方を「注入型」から「構築型」へ切り替えてみることで、先週の冒頭にお話ししたジレンマ──子どもには良い学びを体験して欲しいけれど、最低限の勉強は必要だからさせなければいけない、といって強制的にすると子どもたちは反抗したり逃避したりしてしまう──は、少しずつ軽減していくのではないか、ということです。


それは理想だとおっしゃられるかもしれませんが、何も難しいことではないと、僕は思います。必要なことは、知識が必要になる活動の中に参加し、その活動の中で子どもができることから始め、だんだんともっとできることが増えるように、「足場」を子どもと一緒に作っていくことです。

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たとえば僕自身のエピソードを紹介すると、僕は保育園時代に宵の明星(金星)の輝きに惹かれて以降、親とプラネタリウムに行ってみたり、星空観測会に行ってみたり、博物館に行ってみたり、星座の図鑑や星座にまつわる神話の本を図書館で自分なりに見つくろって読んだりするなかで、次第次第に科学そのものに興味を持つようになっていきました。


興味を持つと、勝手に知りたくなりますし、子どもなりに素朴な疑問も浮かんできます。こうなると、学校の授業は「勝手に自分の知りたかったことを教えてくれる場所」になっていきました。みんなが「勉強」だと思っていることを、僕は勝手に「学び」に変えていたんだなと、いまなら振り返って思うことができます。


これは一例ですが、やはり子ども自身が興味や関心を持っていない活動から始めるのではなく、いま興味を持って熱心に取り組んでいるものに関連した活動に参加していくことが大事なのではないかな、と思っています。


不思議なもので、自分にはどんなに取るに足らないものと見えるものでも、よくよく調べると専門的な知識につながり、その知識を探究しているコミュニティに出会い、科学的な研究や人文的な研究に繋がっていきます。


手始めに、今自分の近くにあるもの(カフェにいるならコーヒー、家なら住居など)についてグーグルで良いので調べてみてください。思いもよらない知識の世界が、必ずそこに広がっています。


その意味で、余談めくかもしれませんが、勉強(注入)が初心者の時代や準備期間に必要になるものと考えられるのに対し、学び(構築)はよくよく考えると終わりがありません。その年齢ごとに出会われる困難があり、参加したい活動があり、そこで培われる知識が次第次第に身についていきますく。


この学びの終わりのなさは、まさにライフロング・ラーニング(生涯学習)という言葉にぴったりです。ひとはその一生をかけて、ユニークな知識を作り上げ、表現し、遺していきます。勉強と学びの違いは、前者が一時期に限ったものであるのに対し、後者はいわばひとが存在する限り永遠に続くような壮大なものであるというところにあるかもしれません。

幼稚園の子どもたちの日々の遊びに見られる、アイデアを持ち寄り、手元のもとでともにプロジェクトを生み出し、新たな構造やプロダクトを作り上げていく創造的なプロセスこそ、変化の早い現代に求められる「創造的に考える人」(クリエイティブ・シンカー)のあり方そのものだと語る、MITメディアラボのミッチェル・レズニック教授。プログラミング教育で有名な「スクラッチ」の生みの親でもある彼の提唱する、生涯をこの幼稚園の創造的な遊びのプロセスで学び続けようとするプロジェクト、ライフロング・キンダガーテン(lifelong kindergarten)については近年邦訳も出版されました。彼のプログラミング教育についてのTED talkはこちらから。


社会がどのように変化しようと、時代がどのように変わって行こうと、人がその一生を生きていくことだけは変わらないように思います。その一人ひとりの一生を支える学びを、今を生きる私たちがどのようにデザインしたのか、成人した子どもたちから問いかけられたとき、わたしたちはどのように応えていけるでしょう。

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GIFTでは子どもたちの一生を支えていく学びをみなさんとデザインするために、教育のあり方について考える上映会や、大人向けのワークショップなど開催していく予定です。今年4月の開校に向けて、学校説明会も毎月開催しております(現在は2月末を予定しています)。

ぜひ、ご関心ある方はお越しください! それでは、ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。


*1 本稿では、ピアジェの「コンストラクティビズム」を「構成主義」、パパートの「コンストラクショニズム」を「構築主義」として訳しています。「構成」という言葉も「構築」という言葉も、それらに含まれている意味合いはさまざまで、捉え方にもさまざまな立場がありえますが、本稿では「足場かけ」の建築的なイメージをもとに構築という言葉をパパートの「コンストラクショニズム」に充てています。
参考文献
H. J. パーキンソン(2000)『誤りから学ぶ教育に向けて──20世紀教育理論の再解釈』勁草書房。
Ackermann, E. (2001). Piaget’s s Constructivism, Papert ’ s Constructionism: What’s the difference? Retrieved January 23, 2020, from https://learning.media.mit.edu/content/publications/EA.Piaget%20_%20Papert.pdf
Papert, S. (1992). Preface The Gears of My Childhood, in Mindstorm: Children, Computers, and Powerful Ideas Second Edition (xviii-xxi), Basic Books.
Sawyer, R. K. (2006). Chapter 1: The New Science of Learning. in R.K. Sawyer (Ed.) The Cambridge Handbook of the Learning Sciences (pp.1-16). Cambridge:NY, Cambridge University Press.

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