【読書ログ】白洲次郎
皆さん。白洲次郎という人物をご存知でしょうか?
聞いた事がない人も多いと思います。
私も、白洲次郎という人がどういった人物で何をした人か全く知りませんでした。
しかし、兄に紹介されて、『白洲次郎〜占領を背負った男〜 上下』を読み終え、とんでもなくカッコいい人物だと知り、その生き方に影響を受けました。
今回はそんな白洲次郎さんについて書きたいと思います。
白洲次郎について
白洲次郎年表
明治35年、兵庫県に生まれる。
大正10年、中学卒業後、イギリスに渡る。
大正20年、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに入学、生涯の友ロバート.C.ロビンに出会う。
昭和3年、家業が倒産した為、帰国。翌年、正子と結婚。
昭和11年(34歳)吉田茂駐英大使を命じられる。
昭和21年(44歳)日本国憲法制定作業に立ち会う。
昭和23年(47歳)電力事業再編に取り組み始める。通商産業省設立
昭和26年(49歳)東北電力会長就任
昭和55年(78歳)最後の英国旅行。ロビンと最後に会う。
昭和60年(83歳)白洲次郎没
イギリス留学時代
次郎は留学時代、大の車好きで親友のロバートとベントレーやブガッティでよくドライブに出かけていた。
そんな車好きの次郎は、ケンブリッジの友人達から"オイリーボーイ”(油まみれになって車をいじっているカーマニアを指す)と呼ばれていた。
この留学時代に次郎の考え方に大きな影響を与えている。
次郎は昭和51年(74歳)中野好夫(英文学者)との対談で、「日本の教育が悪い。教授が講義で教えた事を丸暗記して、それを生徒が丸暗記して試験に臨み、その通りかくと100点、そんなバカなこと世の中にあるものか」「日本ぐらい自分でものを考える奴が少ない国はありませんよ。」と述べている。
その考え方の根源にあるものが、ケンブリッジの教えである。
次郎は、物理学者のクラスで試験を受けた際の事。授業で教わったことを徹底的に復習していた彼はテストの結果に自信を持っていた。
ところが返ってきた結果は案に相違して低かったのだ。
そしてそこには「君の答案には君自身の考えが一つもない」と書かれていたのである。
これには、衝撃を受けた。
これこそが真の学びではないか。とテストの点数が低かったにもかかわらず、痛快な喜びが込み上げてきたという。
また、ケンブリッジの教授は、必ず学生達に向かって”gentlemen"と呼びかけた。
この言葉を聞くたびに、自分達は自由であると同時に紳士として規律を求められているのだという事を噛み締めた。
これらの経験こそが、次郎が生涯を通じ、
「プリンシプル(生き方の大原則)が大事だ」
とことあるごとに口にした背景であり、吉田茂やマッカーサーなど、誰に対しても筋が通らない話には一歩も引かなかった次郎の生き方の根源にあるものだ。
このことからも、
「稀代の目利き」
「直情一徹の士(サムライ)」
「乱世に生き甲斐を感じるような野人」
と評されている。
従順ならざる唯一の日本人
GHQによって着手されてから、わずか8日間で原案が当時の政府に提示されたとも言われる日本国憲法。
この一方的な展開に、真っ向から異議を唱えた人物がいました。
その人物こそが「従順ならざる唯一の日本人」とGHQに評された白洲次郎である。
GHQと新憲法作成の攻防を一歩も引かず戦い、日本のために尽くしてきた。
ー戦争に負けたが、奴隷になったわけではないー
それが次郎の口癖だった。
日本の人として、最後まで戦い抜き、やり通した所が、私が白洲次郎を尊敬するところの一つである。
また、押し付けられたマッカーサー草案に対しても全てを否定するのではなく、「戦争放棄の条項などは圧巻である。」と語り、
『いいものはいいと素直に受け入れるべきだ』
と冷静な意見を述べているところも注目に値する。
日本一格好いい男
次郎はこれまで、吉田茂の右腕としてサンフランシスコ講和条約の締結、通商産業省設立、東北電力会長就任など数々の業績を残している。
また、次郎の政治的手腕はものすごく、みんなが次郎を敵に回したくないと思っていたほどであった。
次郎の影響力は凄まじく、一時期は次郎の名刺が1枚5万円で取引されることもあったという。
これだけの影響力を持っていたにも関わらず、利権屋ではなかったことも素晴らしい。
”功を求めず縁の下の力持ちを持って甘んず”ることをもってよしとしていた。
また、「人間は地位が上がれば上がるほど”役得”を捨て”役損”を考えろ」というのも口癖であった。
上の役職についたからといって何か徳を得ようとするのはもってのほかだろう。
これは彼がよく口にしていた、”ノブレス・オブリッジ”(社会的地位のあるものはそれ故の責任を有する)に通ずる考え方だろう。
「自分よりも目下と思われる人間には親切にしろよ」とも言っている。
運転手のキャンディにも必ず「ありがとう」と言い、食事のために店に出た際も、「先に運転手に食べさせてくれ」と真っ先に運転手の分を注文するのが常であった。
こうした生き方も本当にかっこいい
更に、次郎のダンディさは伝説的である。
日本で最初に白パン×ジーンズを着たとも言われている。
また、背広は全て英国の老舗『ヘンリー・プール』で仕立てた服。
旅行カバンは『ルイ・ヴィトン』を愛用した。
ウィスキーは『マッカラン』が好きであり、更に別に本場英国から輸入しているスコッチ・ウィスキーがまさに逸品であった🥃
ゴルフは最高ハンデは2。相当の腕前である。
また、オイリーボーイと呼ばれた次郎は晩年まで車を愛し続けた。
生涯乗った車は50はくだらないだろう。
70年代、彼は68年型ポルシェ911Sに乗っていた。ロビンから贈られた赤いドライビング・グラブをはめてハンドルを握るのが最高の喜びであった。
遺言は「葬式無用、戒名不用」のたった2文字。
最後の最後まで自分のプリンシプルを貫いた生き方は本当に憧れを感じる。
学んだこと
白洲次郎の生き方は、私の価値観に大きな影響を与えた。
これほどまでに真っ直ぐに生きた人をこれまでみたことがない。
そんな彼の生き方を見て学んだことは、
大きな権力を相手に、臆せず果敢に戦う精神
プリンシプル(生き方の大原則)を大事にする
いいものはいいと素直に受け入れる
権力に驕らず、誰に対しても平等に接する姿勢
筋を通す
自分で考える、物事の原則を考える
他にもたくさんあるが端的に書くと上記のものだ。
私も白洲次郎のようなかっこいい男になれるよう、これからも精進していきたいと思う。
今回は白洲次郎さんについてまとめました。
最後まで読んでくださりありがとうございました🙇♂️
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