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もしも戦時中にタイムスリップしたら、と考えたことはありますか?

先日、遅ばせながら映画『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら』を観ました。その日はめちゃくちゃ眠くて!!早く寝たい…でも観たい…の狭間で動画配信サイトを開き、同作を見始め、気づいたら観終わっていたのです。

メモがわりに、映画の感想を書いていきます。

『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら』との出会い

同名の小説を読んだのは、私が高校生くらいだったと思う。
当時は「戦争」関連の書籍や映像にどこか怖さがあったので、できる限り遠ざけて生きていた。
ただ、本作品は当時流行っていた「携帯小説」で作成されていた小説だったことから、戦争モノではあるけれど少し身近に感じ、手に取ったという訳だ。

この小説との出会いは衝撃的だった。ページをめくる手が止まらないとはまさにこのこと。それを体験したのも本作品が初めてだった。

タイムスリップものは数多くあるけど、どうしてもSFっぽい、どこか非現実的な印象がある。しかしこの作品は、自分が本当に戦時中の日本にいるかのような疑似体験ができたのだ。当時、私自身が主人公・百合と同じ高校生だったことも影響しているのかもしれない。

小説を読み終わる頃には胸がジーンと熱くなり、流れる涙を止められなかった。ただの携帯小説だと思って何気なく読んだだけなのに(失礼)、ここまで自分の心に強く残るとは思わなかった。


そして、月日は流れ現在私は28歳になった。あの花の小説を読んでから丸々10年である。

これまでも小説の内容が忘れられないことが多々あった。大学で特攻隊について学んでいたからかもしれない。「あの作品でも特攻隊について書いていたよな?」と。

内容だけは鮮明に思い出せるのに、なぜかタイトルを覚えていなくて「特攻隊 高校生」「戦時中 タイムスリップ」などのワードで検索することが何度かあった。そしてその度に「あ〜、こういうタイトルだった。」と満足するのだ。

とはいえ一度読んでしまった小説。続きがある訳でもなかったので「印象に残った内容だったな〜。」くらいに思っていたのだが、Tiktokで話題になり、瞬く間に映画化が決定したというではないか!

『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら』映画公開

2023年12月8日に、映画公開(この日付は太平洋戦争開戦の日)。
『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら』、出演俳優による宣伝は何度か見たが、まさか自分が10年前に読んだ小説の映画化とは思っておらず、勿体無いことに映画館では観られなかった…。

公開してから日にちが経ち、CMで動画配信サイトにて同作が配信されることを知り、その映像を見て驚いた。まさに私が読んでいた作品の映画化ではないか!と。

そして2024年8月2日から『Amazon prime』で配信がスタートしたと同時に、鑑賞したのである。

私と本作との思い出はここまでに、早速映画の感想を記していく。

現代の高校生が戦時中の日本にタイムスリップする、というありそうでなかったテーマをもとに、特攻隊である彰と百合の儚い恋を描いていく本作。

映画『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら』を観て感じたこと

物語に出てくる「鶴屋食堂」は、特攻隊員の食事について語る上ではでは避けて通れない「富屋食堂」がモデルになっているのであろう。作者が鹿児島出身ということから、作中最後に出てくる特攻隊の博物館も「知覧特攻平和会館」がモデルだろう。

母親と喧嘩した百合は、溺れた子どもを助けて亡くなってしまった父親のせいで貧乏な生活になったことを嘆いており、ボロボロになるまで同じ下着をずっと着ている母親に嫌気が指し「全部お父さんのせいじゃん!正しいことをしたって何?!」「妻と子どもを置いて死んじゃったお父さんのどこが正しいの?」と母親に問いただす。

きっと母親は夫を正しい人だと思っているし、自分の命を犠牲にしてまで他人の子どもを救った夫を誇りに思っているだろう。ただし、その正義は”果たして自分と百合にとってはどうだったのか”。
その答えはわかっているはずだが、その答えと向き合わない、認めたなくないという気持ちもあるのだろう。

何を思ったって、夫は帰ってこないのだから。

そんな家庭環境であるから、百合は学校で孤立してしまう。家でも学校でも拠り所がない。そんな百合が家出先に選んだのが、近所にあった防空壕である。

近所の子どもの秘密基地のようなその場所で百合は一夜を過ごすが、目が覚めると一面茶畑だった。
鹿児島は戦前からお茶の生産が盛んだったが、特攻の基地に選ばれた頃から茶畑が埋め立てられ、滑走路が作られたそうだ。

百合は見たことない町を彷徨うが、ついに熱中症で倒れそうになってしまう。それを助けてくれたのが、彰だった。

現代では手を繋ぐとか、キスをするといった「肉体的」なつながりが多く描かれるが、本作では一切そのような描写がない。

彰の”真っ過ぐな視線”は果たして

作中通して”水上恒司の真っ直ぐな視線がよかった”という感想を見かけるが、個人的には結構怖いと感じた部分だった。
18歳の高校生・板倉が特攻を怖がって逃げたところとか、加藤が自分の父親が敵前逃亡を図り、そのことに後ろめたさを感じているとか、特攻隊員の人間味は少なからず様々なシーンで感じられるが、彰は終始機械仕掛けというか、どこか操り人形のような表情だったように感じた。

笑顔ではあるのだけれど、笑っているのは口だけで目が据わっている。そんな風に感じてしまった。戦争が人間をこう変えてしまうのか、と思える表情でもあった。

特攻から逃げることについて

そもそも当時”特攻前日に特攻から逃げる特攻隊員”を見逃す特攻隊員がいたのか?は気になる点だ。
作中では空襲によって歩けなくなってしまった恋人のそばにいたい、と板倉が夜中に逃げるシーンがあったが、それを特攻仲間たちは止めるでもなく見逃していた。
戦時中どのような統制がされていたか詳しいことはわからないが、それでも「日本のために戦う」ことしか許されていなかったこと、その思いを無くしてしまったら「非国民」になることは、戦争を少しでも知っていたらわかることだろう。
それどころか、板倉は「神」と崇められていた特攻隊だ。その当時特攻隊がどれだけ称えられていたかは作中だけでも手にとるようにわかる。そのような特攻隊が、出撃直前になって「特攻をやめたい」と言い出したら、周りの仲間はもっと必死に止めただろう。もしバレてしまったら、自分達まで罰せられる可能性があっただろうから。
板倉が出撃から逃げたい気持ちはよくわかる。もし「特攻隊も逃げ出したい気持ちを持っていた」描写を入れたいようであれば、仲間に見つからずに逃げ切って欲しかったと感じた。

また、この場面で彰は板倉に寄り添った言葉をかけるが、そんな彰を見て驚く百合の表情が印象的だった。その表情は「(板倉に愛する女性がいるならお前が支えてやれ…みたいなこと)そんな言葉をかけるのに自分は出撃しちゃうんだ」と思っているような。もし自分が百合でも「そう思うならあなたも出撃をやめて!」と思ってしまうだろう。

百合の真っ直ぐさ

物語と通して、百合は一貫して「もうすぐ戦争は終わるのに(なんで出撃するの)」と嘆いているシーンが多く描かれる。

もしもタイムマシーンがあったら、と考えたことはないだろうか?自分の過去や未来を自由に行き来できるその機械・手段は、SF作品で多く描かれるものである。
もし自分が好きな時代、好きな場面にタイムスリップできるとしたら、戦争が始まる前や戦時中だったらどうだろう?と、これまで何度か考えたことがある。
ただ、もしその時代にタイムスリップしたとしても、百合と同じ疑問を抱いて周りの人に反抗はしても、実際に行動を起こせる自信は到底ない。
なんせ戦時中は日本国に対して不満を言うのも御法度、日本が負けるなんて言うのは非国民と見做されるからだ。

それでも彰を助けたいからと、特攻隊は無駄だから命を大切にしてほしいと思った百合は、自分の意見を曲げなかった。時代の流れに合わせてしまう場面はいくつもあったけど、最後まで「特攻に行かないで」と彰に願った。しかし、その願いが叶うことはなかった。

百合へのラブレター

私自身、3年前に知覧特攻平和会館へ行った。「人生で一度は行くべき場所」とも言われるが、この場所を訪れてから本作を鑑賞してよかったと思う。三角兵舎も実際に入ってみたし、出撃していった特攻隊たちの写真や手紙も見た。帰り際は胸がじわっと熱くなって、悲痛とも哀しいとも言えない、複雑な感情が沸々と湧き上がっては消えていき、そして色々なことを考えた。

三角兵舎は思った以上に天井が低く、身長154cmの私でもかなりの圧迫さを感じた。平和会館の周辺は異様な雰囲気に包まれていて、レプリカではあるが「ああ、この土地から多くの若者が飛び立っていったんだな」と思った。

戦時中から現代へと戻ってきた百合。長い時間タイムスリップしていたと錯覚していたが、実は家出してから半日しか経っていないことに驚く。

この描写は、もしかしたら普通に過ごしている「半日」でも、戦時中から考えるといかにかけがえのない時間なのか、当たり前に過ごせる時間ではないんだ、というメッセージではないか?と感じた。

朝遅く起きて昼までスマホをいじいじ、お腹が減ったら親が作ったご飯を食べたり、外に出てお店でごはんを食べる。現代では当たり前に訪れる「たった半日」でも、戦時中にタイムスリップした百合は、「生きていくための術、衣食住ができる場所を見つける(=鶴屋食堂に就職)」「生きていくために食事を作れるようになる(=鶴屋食堂での手伝い)」「大切な人との出会いとその人と過ごす大切な時間(=彰との出会い)」「大切な人との別れ(=彰出撃)」を経験している。今生きていることがどれだけ奇跡なのか、どれだけ恵まれているのか。実際百合がタイムスリップした期間も半日ではないが、今の時代生きるための手段を見つけ、その生活に順応し、大切な人と出会い、そして大切な人が”死ぬ”とわかっているところへ行く、なんて短い間で体験することの方が難しいだろう。しかもそれは一度や二度ではない…何度も、何人ともだ。

一面に広がる美しい百合畑で過ごす彰と百合の描写はとても美しかった。「戦争のない時代に生まれていたのならば教師になりたかった」ぽつぽつと話し出す彰と、日本の未来を知っている百合の対照的な表情も、百合と過ごす時だけはリラックスしたような表情を見せる彰も、どの描写もかけがえのないものだった。

夢だったのか?と目を覚ます百合だが、平和会館に行って板倉や加藤、そして彰のラブレターを見て「本当に経験したことだったんだ」と泣き崩れるシーンがある。自分だったら好きな人へのラブレターを公開されるのは少し恥じらいはあるが、特攻隊員でも普通の人間なのだ、青春を過ごすはずだった青年だったのだ、と改めて実感するシーンでもあった。

検閲があったことから、鶴さんに家族や恋人への手紙を託すシーンも印象的だ。その手紙がきっかけで特攻する彰を見送った百合であったが、その内容は見ずに現代に帰ってきた。平和会館に行って彰の遺影を見て「ああ、本当にいないんだな」と実感してしまうのも辛かっただろう。そして、彰のラブレターには百合を大切に想っていたことが丁寧に、真っ直ぐに記されている。ただし、そこには「飛び立つ後悔」は記されていない。その点も悲しい部分だった。

最後に

小説から本作を知り、映画を鑑賞しました。原作の百合は中学生ということもあり、福原遥さんが演じていた百合よりもっとワイルドというか、THE思春期という感じでしたが、それほど相違もなく百合という人物へのイメージもほとんど変わらずで、その点は非常に良いと思いました。
全体的に内容もほとんど原作通りに再現されており、最近は映画化や実写化が批判されている中、本作はとても良い内容だったのではないでしょうか。
百合が中学生だったから彰や鶴さんにストレートな物言いをしている本作とは異なり、映画では高校生ならではの大人寄りな対応、相手の気持ちや空気を読みつつも思っていることを伝えていたので、こういった細かい変化も良いですね。

若い方の鑑賞が多かったらしいです。出演されている俳優さんたち(本作は特に伊藤健太郎さんか…)の影響がほとんどだと思いますが、それでも若い人たちが戦争モノの映画を、お金を払って観に行くというのは非常に感慨深いことだと感じました。
私自身本作で泣きませんでしたが、胸にジーンとくる内容でした。(ちなみに原作は泣きました)

若きまま特攻へ行く特攻隊、現代の若者が感じる”戦争”、今生きているありがたさ、特に若い方は一度観るべきだと思います。

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