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牛丼ひとすじ

明治32年、日本橋。
愛すべき国民食となった牛丼の定番というべき吉野家は、この地で産声を上げた。文明開化の食生活となった牛鍋を、より大衆的に昇華した丼物として、いまもなお根強いファンが多い。
子供の頃は、牛肉なんて贅沢品、庶民の口にする物ではないと信じていた。我が家は質素倹約だったし、安くてその分、量の多い食材を求めたものだ。外食なんて以ての外、これを気ままに行なったのは高校に入ってからだったと思う。
まあ、我が家の貧乏自慢はさておき、吉野家が庶民の味方だと自覚したのは、キャッチーなテレビCMが耳から離れられなくなった頃だろう。
 
  

♪ここは吉野家 味の吉野家
      牛丼ひとすじ80年♪

吉野家が産声を上げた明治32年の日本は、どんな年だっただろう。
1月21日に勝海舟が没し、6月14日には川端康成が産声を上げた。日本はみるみると近代化され、江戸の名残は僅かになっていたことだろう。2月1日には東京大阪間で電話が開通し、8月15日に森永製菓の前身である森永西洋菓子製造所が創業した。
そして吉野家の誕生した日本橋の上には、まだ首都高速もなく蒼天が広がっていた。
当時は江戸時代から続く〈日本橋魚市場〉のおかげで、大勢の男たちが汗水流して働き、牛丼で英気を養ったのだと伝えられる。この魚市場は大正12年9月1日に発生した関東大震災のため、長い歴史を誇った魚河岸の幕を閉じました。その後、築地へ移転し、現在は豊洲へと移転するのです。
日本橋から始まった吉野家は、やがてチェーン店を設けて飛躍します。原点のお店は「日本橋室町店」として、今でも店を構えています。庶民の味方である吉野家の牛丼を、古川緑波は「下司味礼賛」において斯く記す。
 
   むかし浅草に盛(さかん)なりし、牛ドンの味。カメチャブと称し、
   一杯五銭なりしもの。大きな丼は、オードンと称したり。あの、牛
   (ギュウ)には違いないが、牛肉では絶対にないところの、牛のモ
   ツや、皮や(角は流石に用いなかった)その他を、メッチャクチャ
   に、辛くコッテリ煮詰めた奴を、飯の上へ、ドロッとブッかけた、
   あの下司の味を、我は忘れず。
   ああ下司の味!
 
関東大震災、東京大空襲、多くの惨禍を乗り越えてきた吉野家が絶体絶命になったのは、BSE問題が発生して牛丼販売休止に陥った平成15年(2003)のことだろう。あのときほど、全国の吉野家ファンが熱い声援を送ったことはなかったのではないか。牛丼ひとすじに復帰するまで、夢酔も豚丼を食べて応援しました。
各種の牛丼チェーン店が登場した20世紀末から21世紀初頭。牛丼屋なのかカレー屋なのか分からない程メニューが乱立しました。一時期、吉野家にも迷走した様子が感じられました。が、願うものなら、吉野家だけはブレることなく牛丼ひとすじであって欲しい。個人的な想いです。
2021年、122年目の吉野家。
新型コロナウイルスのため、外食も儘ならぬ状況になりました。外食産業、大打撃。せめて今宵はお持ち帰りで、日本の近代史とともに歩んできた吉野家の牛丼を食しながら、歴史に思いを馳せる至福のひとときを過ごされた方々もいたことかと思います。
 いま、吉野家を愛している夢酔は、わき目もふらず古のレジェンドメニューだけを注文している。
「大盛りと、ギョクとみそ汁!」
勿論、カウンターでカキコミ飯を黙食するのであります。
どこかの馬鹿のせいで紅ショウガが寂しくなったことだけが、仕方のないことと諦めている部分。あとは古き良き時代から変わらぬ、俺たちの吉野家をこれからも応援したい。