論語 子張14 分かりやすいのは落とし穴でもある

 喪にあたっては、ひたすら哀悼の情を尽くせばそれでよい。(子游)

久米旺生(訳)(1996)『論語』 徳間書店 中国の思想[Ⅸ]

 気持ちが一番大事、というのはあまりに簡略化された表現である。説明の後にまとめる形でこの表現を使う事はあるが、この最後の結論だけが独り歩きすると極端な意見だけが溢れかえることになる。

 子游は孔子の弟子である。孔子は儀式や礼楽において気持ちが大事という話はしているが、だからといって式の形を蔑ろしていいという話はしていない。式の内容や用いる道具などが時代や状況によって変化することはある。
それが良い変化なのか悪い変化なのかを判断するときに、気持ちが込められているかどうかが指標となる。

 孔子の言わんとしている事は、気持ちも決まりも大事、でもどちらかというと気持ちの方が大事、である。この表現ですら簡略化している。実際に論語を読み進め咀嚼する中で感じた事を大事にしてもらいたい。
 他人の現代語訳を借りている私が言えた立場ではないが、究極的には原文を読んで翻訳をするのが身に染みる場合が多いのではないか。

 言葉の危うさを感じる。分かりやすい言葉は伝わりやすいが、簡略化をしすぎてしまうため、中身をあまり把握していない、発言する場所を間違える、等使いこなせなければ相手に間違った事を植え付けかねない。特に、分かったつもりになるのが良くない。

 そもそも何かを分かるという事に終わりはない。出来るのは理解の範囲を限定することによって、どんな線引きをする事だけではないだろうか。いくつかの例外はあると思うが。
 どこまでもいっても結局何かに偏ってしまう。そのいろいろな偏りを多方面から集めるという事でしか理解の幅を得ることは出来ないのかもしれない。
 いろいろな視点を持つことが出来れば、簡略化されて分かりやすくしている表現や、どういった視点、根拠で話をしているのかというのが分かるだろう。それが分かれば相手の言っていることが「素っ頓狂な言い分」ではなくなるのではないか。

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