論語 子張12 人任せにしない

 子游がいった。
 「子夏の弟子達はそうじや客の接待や行事作法については問題ないが、そうしたことは<末>だ。<本>である道徳の原理となるとたよりない。これはいかがなものか。」
 子夏はこの話を聞くと、こういった。
 「ああ、言游(子游)はまちがっている。君子の道を教えるのには順序がある。末を先にしたからといって、本を教えないというわけではない。弟子の力に応じて、教え方も変わってくる。たとえていえば、草木の大小によって世話の仕方がちがうようなものだ。君子の道は、難しい高尚なことを力のない物におしつけても身につくものではない。順序を問わず、なにもかも身につけるなどということは、聖人にできることで、若者に教えるには、順序を工夫する必要があるのだ」

齋藤孝(訳)(2010)『現代語訳 論語』 筑摩書房

 私はこの話を聞いてお互いの主張が特にずれている訳ではないと感じる。
子游の主張をどう解釈するのかという話になるが、いわゆる末と本は別の物であり、道徳原理をどこに置くのかという話である。子游の話を私は行為に道徳の原理を求めるべきではないと解釈した。解釈自体があっているかどうかという問題はあるが、道徳の本質は具体的な行為を守る事ではないというのは納得できる。

 それに対する子夏の主張は、末と本の順番の話をしている。具体的な行為が道徳ではないといったが、道徳を進めていくには、掃除や接待等の細やかな生活態度や礼は欠かすことは出来ないのもまた事実である。

 道徳を具体的な形で世に還元するには、知識や技術は勿論だが、相手や社会の為に自分の気持ちに折り合いをつける必要がある。その一歩として面倒くさい事、具体的に言うと子夏が話しているように掃除をこなしていくのは現実的な一歩だといえる。

 こういった意味でお互いの主張するところはずれていないと思う。
 気になるのはむしろ、どちらが上手い例えで相手を言いくるめることが出来るのかどうかが重要ではないか、と見えてしまう点だ。昔だったら勉強しているのだなと思うが、現代ではあちこちに情報が溢れている。

 同じ問題を扱い目指す目的が同じでも根拠とするものが多くなり主張がずれやすくなる。そんな中で求められるのは、相手と自分の主張が食い違った時に、お互いに冷静に話し合いが出来るかどうかである。そして、自分の意見を通す前に、そもそもの根拠や目的のすり合わせが必要となる。もしかしたらそれらがずれたままでも協力し合える体勢を整えることが出来るかどうかも重要ではないか。

 話し合いの場において何かを決定する際に、意見が衝突するなら誰かの意見を否定して物事を進める事は必然的に起こる。だからこそ、その後も円滑に関係性を結べるような工夫や話し合いの仕方はお互いが身につけておきたいところだ。

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