論語 子張15 扱いにくいSNS

 わが友、子張は、たいていのことならやってのける。それでも、まだ仁に達したとはいえない。(子游)

久米旺生(訳)(1996)『論語』 徳間書店 中国の思想[Ⅸ]

 私は仁が何なのかすら分からない。道徳の一つの形だと思うが具体的にどうしたら仁に達したといえるのか分からない。
 子張も子游も孔子の弟子である。子游はこういっているが彼自身、仁に達しているのだろうか疑問である。彼がどういった人物か分からならければどんな意味合いが込められているのか分からない。
 鼓舞なのか、嫉妬なのか、皮肉なのかなんとでも読み取れてしまう。分からない事尽くしである。

 しかし、このような子張や子游のような人間関係は非常に重要であるのは分かる。自分一人ではなく、良い師匠の下で切磋琢磨が出来るというのは、間違いなく集団の利点といえる。自分の実力がどのようなものかを把握するためには他との比較が必要不可欠である。

 自分が得意だと思っていた事も実際は何でもない事というのはよくある話だ。逆に自分がどうしようもなく駄目だと思う事も、世間ではあるあるだったりする。
 そうすると今の自分に足りない物が分かったり、余計なことに悩まなくて済む。

 そして最近実感しているのは、実際に人に会って話をするからこそわかる事があるということだ。相手の話を聞いていると一つ一つは既に知っている話であることが多い。つまり、本やネットなどで書かれている事と変わらない。しかし、それがその人の思いや経験と結びつき、そこに存在しているという実態を感じるのである。それぞれの知識は独立しているのではなく、地続きであるという事を実感する。

 間違いだと思っていた事も、ある思いの元では納得できる。そうすると、自分の正しさがどういった正しさなのかというジャンル分けが可能になる。

 普段ネットなどで見る情報はかなり省略されている可能性があり、結論のみで話が進んでしまう。しかしその結論に至る過程や思いを蔑ろにしてしまうと同じものを見ていたとしてもすれ違う事になる。

 現代ではそういった簡略化された結論のみ目の当たりにして話題にされている印象だ。こちら側がどの情報を扱うか、場合によっては無視するか、本当かどうか、意味合いはどうかを判断して多方面から研究していかなければいけない。
 
 私にとってSNSは扱いがとても高度なものである。操作そのものではなく、正しく扱うという事がである。

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