着物の話。
※今回は「着物」をテーマにしたら色んな話が思い浮かんできたので全部載せました。
その1。
私の祖母は今で言う占い師とか拝み屋。そんな感じだったと思う。
毎日の様に誰かしら訪ねて来ていた。老若男女。世代を問わず。
そんな中で、自分の家が周りより少しばかり特殊な環境に居ることに気付く。
それでも仲良くしてくれた友達に感謝しかない。と今になって思う。
さて、上記の様な生活をしていた私だ。周囲から「○○さんちの坊ちゃん」「あの家の坊ちゃん」等と呼ばれて生きてきた。
同級生はそんな私の環境にも無視して仲良くしてくれた。全校生徒100人ぐらいの学校だった。だからかもしれない。
話を戻すとわたしの祖母は一般的なお祖母ちゃんより好かれていたというか、周囲に人が集まっていた。
お茶飲み友達であろう近所の方々や、スーツを着こなして秘書を連れていた(今思えばだけど)人や、何かしら迷った人が来ていた。
ある日の事。
記憶の中を辿ると、その日は珍しく誰も来なかった。そして蒸し暑かった。来客は誰も居なかった。今日はゆっくり出来るんだなぁ。と思いながら、のんびりジュースを飲んでいると「すみません」と玄関から声が聞こえた。
ジュースを一気に飲み干して、慌てて玄関に向かうと着物を着た綺麗な女性が立っていた。私は幼いながらも息を飲み、その女性を見ていた。
女性は私を見るなり「こんにちは。お祖母さまはいらっしゃいますか?」と素敵な笑顔で私を見て言った。
返事をしようとした瞬間に「帰れ!家の者に手を出すな!」と声が響き渡った。ビックリして振り返ると祖母が玄関先を睨みつけている。
「お祖母ちゃん。どうしたの?」と私が言うと「こっちにおいで。後ろは見ないで」と優しく言う祖母に小走りで近寄ると抱きしめた。
「うんうん。もう大丈夫だからね。ばぁばがいるからね」と私の頭を撫でて優しく慰めながら視線は玄関を向いていた気がする。
視界は抱き寄せる祖母の足元。背中には女性の視線を感じていたが「もういいよ。大丈夫」と言われて顔を上げると祖母の笑顔が迎えてくれた。けど、後ろを振り返ると玄関の女性は居なくなっていた。
今日は祖母の七回忌。親族集まって騒いでいる。
あの日の思い出は誰にも言えないし、言う必要もない。
やっと私は両親が居ない幼少期と、祖母の来客の対応を幼い私が対応していた違和感を覚え始めた。
その2。
私の実家は「宗家」と呼ばれる筋に当たる。
親戚付き合いも子供ながらに「分家」「宗家」と聞きながら育った。親戚の子供同士で遊んでいてもだ。目に見えない鎖を感じて息苦しかった事を覚えている。
だけど、楽しみな日があった。
『承認の日』だ。
その日は親戚や近所の人が集まって、朝から晩まで人が入れ替わり立ち替わりで宴会をするのだが、幼い私や同じ歳の皆にとって騒がしい大人より楽しみな事があった。
親戚や近所の人が宴会をしている大広間。その主役は季節毎の着物であった。その美しさに惚れ惚れしたものだ。
10月に出された着物は袷(あわせ)と言い、菊や紅葉、銀杏と言った模様が見られた。
そして6月に出された着物は単衣(ひとえ)。この着物は少し特殊で9月にも出されていた。柄は違うがあじさい・朝顔・なでしこ。の柄があった。
最後に出すのは薄物・夏用着物と言い7月、8月に出された着物は地元の夏祭りもあって特に私の印象に残っている。この時期に着る和服を私は朝顔を選んでいた。今でも夏祭りの時期が近付くとショッピングモールで無意識に探してしまう。
季節毎。いや、着物の時期毎に出される。それが大広間の一番上座に置かれる。少し距離を置いて皆がその着物を持て囃す様に大人が騒いでいた。そんな印象だった。
私も大学を出て地元で就職をした。結婚して子供が産まれた時に親は泣いていた。そしてこう言った。
「着物の前で、もめ事や愚痴をこぼさない様に明るく振舞って」
そして話された事だ。
ここからは聞いた昔話だ。
あの着物はうちの血筋を代表する女性の物らしい。
女性は今で言う霊感があったらしく、周りを助けながら血の繋がりや近所の人達に人一倍、縁を感じていたらしく周囲を大事にしていた。そんな女性が着物を変える度に皆は褒めて宴を開いていた。
女性が70を超えても。
たくさんの人が集まって、宴をしている中でそれは突然起こった。
酔っ払い同士の喧嘩だ。
周囲も女性も止めたが喧嘩は収まらない。お互いに殴り合い、血が飛んでいる。周りは慌てて止めたのでそこで済んだが、喧嘩した二人は離された後もお互いの愚痴を言いあっていた。その日はそれでお開きになったが、翌日に喧嘩した二人が死んでいた。皆は慌てて女性に伺いを立てた。
すると女性は「うるさかったから」とだけ言ったらしい。
その後に「今後、私の前でそう言った事をしなければいい」と。
女性が亡くなった後で喪に服していた人が故人を想うその会で飲んで暴れた人も死んだ。暴れていた人を止めずに愚痴だけ言っていた人も。
皆が女性の言葉を思い出した。
鎮魂の意味を兼ねて、女性が愛用していた着物を現在の様に上座に置いて
宴を開いた。喧嘩はせずに。すると誰も死なないし、少しばかりの幸運が来た。ここまでが聞いた話。
皆は人が死ぬ事よりも幸運を選んだ。そう言われても仕方ない。
両親から続いた言葉は背筋を凍らせた。
「それで貴女が産まれたのよ」
私は「宗家」の者として季節毎に着物を出す役目を背負ったと同時に、自身の娘にこの話を伝えていく役目を背負った。私は両親と同じ言葉を言うんだろうか?この娘に。
今ならわかる。幼い頃の宴会は無理やり笑っていたのだと。
話はこれで終われば良かったのだけど、そうはいかない。
「承認の日になにかしら問題を起こした家族の中で一番小さい命が奪われるんだよ」泣きながら私に伝えた両親を見ながら、他人事の様に冷めて聞いた後に1人で鏡に向かい目尻を下げて両手の人差し指を口の端に当てて上に上げた。
どれだけ業の深い一族なのだろうか。
その3。
大学2年生の夏休み。実家に帰省した時の話です。1年の頃は開放感から友達と遊び呆けていたが今年は親のありがたさを実感して夏休みに帰省した。
実家でゴロゴロしつつ、地元の友達と遊んでいる。こんな時間も悪くない。ご飯は出てくるし、予定に追われる事は無い。そんなある日母親から遠慮がちにこう言われたんです。
「ねぇ。庭にあるプレハブの物置片付けてくれない?」
私は了解して片付けに入りました。
一度、入り口を開いて埃ぽかったので家に戻りマスクを着用して戻ってきたのを覚えています。
物置小屋の中は目が細まるほどでした。私が入るまで誰も入ってなかったのが分かります。開けた瞬間に匂ってきました。
眉をしかめながらスコップや鍬等の農作業用具があまり汚れていない事を確認しつつ、天井の汚れをはたきで落とし、中に有る物の埃を落としながら、拭きながら。それを繰り返していた内に奥で一冊のアルバムを見つけました。作業の手を止めてしまうのも仕方ないと思います。
私はアルバムを手に取ると思い出に浸りながらページをめくって行きましたが、一枚の写真で手と目が止まりました。
赤ちゃんの頃であろう私を抱っこしている和服の綺麗な女性。少し色ぼけた写真に時代を感じます。けれども記憶を探ってもこの女性は思い出せません。とりあえず私は物置小屋の掃除を優先してそこから出ました。手にはアルバムをこっそり持って。何故か、両親には見せにくかったんですよ。だから隠してました。
お風呂に入って夕食を食べて、両親とゆっくりしている時に「そういえばさー」と隠していたアルバムを出すと両親は「なつかしい!」と喜んで一緒にアルバムを眺めてましたよ。
「で、この人誰だっけ?」と素直に聞いたが両親は固まっていた。写真に写る和服の女性を見て。
空気を読んで「何?」と聞くと重たい空気と沈黙が流れました。その後で父親がこう言いました。
「これは俺の姉ちゃんだ。お前からしたら叔母にあたる人だな」
その瞬間、母がビクッとしたのを見逃しませんでした。
それを感じていたのか分かりませんが父は話し始めました。
「お前の叔母さんっていうのはな、お前が大好きだったんだよ。最初は良かったけど、最後はお前の祖父母。祖父ちゃん。祖母ちゃん。から遠ざけられる程に。言い方を変えればそれほどお前を大事にしていたかもしれないなぁ」
隣に座る父を私は見ている事しかできません。
「お前が産まれて家に戻って来た頃はそりゃぁ、みんなが祝ってくれたさ。お前は望まれて家に来てくれた子だ。今もそう思うし、お母さんの所に来てくれて感謝してるし、何より自慢の息子だ。それだけは覚えておいてほしい」父はそう言うと少し溜息をついて再度話し始める。
「黙ってられるならそれが良かったんだけどお前にも聞いてほしい時期かもしれんな」
写真を見たまま話します。
「叔母さんは生まれつき体が弱くてお見合いも上手くいかなかった。言い方はあれだけど・・・。後から分かったんだが子供が産めない体質だったんだ。お見合いが上手くいっても離縁されていた。そんな時代だったんだ」
「周囲の言葉や世間体を気にしながらも、1人で生きていこうと思った矢先にお前が産まれて叔母さんの愛情は全部お前に注がれたんだ。頼んでない事も全部進んでやるようになっていた。お前が自分の子供だと錯覚していたんだ」
父は相変わらず神妙な顔をしながら、向かいに座る母は下を向いたまま少し涙をこぼしています。
「最初は軽い事だったかもしれない。お前を抱っこして哺乳瓶をあげてる時に叔母さんは喜んでたんだよ。みんなも。それからかもしれない。お前の母さんにオムツや粉ミルクを差し入れしつつ口を出し始めたんだ。おむつの交換のタイミングや授乳のタイミング、寝かしつける時間とか。最初は、なぁなぁ。にしてたけど母さんは少しずつ異常さを感じてたんだ。違う事が分かったのは叔母さんがお前の事を、お前を連れてうちの子。って近所に言ったり、母さんに向かって、お前をいつ私に返してくれるの?って言った時だ。皆が異常に感じたんだろうな。お前と叔母さんを引き離そうとした時・・・」
ここまで言って父は口を紡ぎます。母は我慢していただろう泣き声を吐き出しました。嗚咽を漏らしています。
「お前は誘拐されたんだ。叔母さんに」
私は黙って聞いていました。
「お前が居なくなったことを警察はもちろん、周囲の人。親戚の人間総出で探したよ。で、見つかったのは2日後だった。隣の県で見つかったお前と叔母さんは直ぐに引きはがされて、これは看過できない。って、当たり前の意見もあって直ぐに施設に入れられたんだけど、一番叔母さんを支えていたのは母さんだった。励ましの手紙を送ったり、面会に行ったり。俺は行けなかった。恥ずかしい話。お前を奪って母さんを悲しませた姉を許せなかった」
横には項垂れた父。正面には泣いている母。視線に困りました。
「母さんから聞いた話。叔母さんは施設で暮らすうちに少しずつまともになってきていたんだけど、急にシーツを使って自殺したんだ・・・。この件にお前は全く関係ない。それも本当だ。この写真に関してだが・・・・・・・」
「何?」
私はやっと声が出せました。
「こんな写真ありえないんだよ」
今度は父が泣きそうになりながらそう言ったんです。
「叔母さんは実家のお墓に眠ってる。葬儀の後でお前と叔母さんに関わる全ての物を処分しようという話を決めて、全部処分したんだ。人のやる事だ。漏れはあったかもしれないけど、何度も確認したんだ。そのアルバムも含めて」
私はここまで聞いて「うん、わかった」とだけ言って部屋に戻って眠りました。時間は就寝するに良い時間でした。
翌日。起きてからアルバムを開いた私がこう言いました。
「写真が無い」と。
父も母も同じように驚いていましたし、両親に対して疑惑はありました。知らない振りをして写真を処分したのではないかって。
けど違う様でした。そうでありたい。と思い帰省中は出来るだけ普通に振舞いました。
うちの家は歪なバランスで成り立っている事もうっすらと思いながら。
写真が消えた事に関しては、私自身がこう思っています。
叔母は私の記憶に改めて刻み込んだから写真が無くなったのだと。
そして、この帰省が最後であった。と帰路に着きながら思うのでした。
その4。
12月にあじさい柄の着物を着た女性を着た女性が目の前からやってきた。背筋がピンとして歩く姿全ての立ち振る舞いが綺麗だったので、無意識にも視線は女性に持って行かれた。そんな中で私と目が合うといたずらっぽく片方の唇を上げて逆の目をウィンクしながらスゥっと消えた。