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首(2023)

首(2023、KADOKAWA、130分)
●脚本・編集・監督:北野武
●出演:ビートたけし、西島秀俊、加瀬亮、中村獅童、木村祐一、遠藤憲一、勝村政信、寺島進、桐谷健太、浅野忠信、大森南朋、六平直政、大竹まこと、津田寛治、荒川良々、寛一郎、副島淳、小林薫、岸部一徳

とりあえず面白かったところや印象に残ったことを記していこう。

冒頭、場面転換でワイプが使われていて黒澤明のパロディか!?と思ったけど、以降は使われず最初だけだったのは謎。

中盤、焼けた村を呆然と眺める場面の参照元は『七人の侍』だろう。

信長の登場を待つ武将たちの面々を横舐めで映すのはアウトレイジ感があった。

北野武監督初の戦国時代劇ということで、今までの通常の戦国ものでは描かれなかったことに挑戦している。

タイトル通り首を刎ねるシーンがとにかく続く。

戦争のリアリズムを表現しようとしていると思うが、他の体の部位、例えば手足が切られて吹っ飛んだり(『仁義なき戦い』あるいは『もののけ姫』のように)というシーンはほとんどなく、とにかく首が斬られるというシーンだけが異様に多かった気がする。

映像作品では無視されることの多い武将同士での男色関係(大島渚の『御法度』はあったけど)もストーリーの主軸となっていて、逆に女性は柴田理恵を除いてほぼ登場しない。ビートたけし演じる秀吉は農民出身ということで男色には理解がないという設定。『御法度』での土方歳三(ビートたけし)もそういうスタンスだったのかどうかは忘れた。

自他ともに「秀吉は百姓の出」ということに言及する場面が何度かあったが、芸人から映画監督となった北野武自身のことを重ねているようにも思える。

武将たちだけではなく百姓や抜け忍など身分の低い者たちからの視点も設定されているあたりは、岡本喜八監督『吶喊』のテイストも感じた。

狂言回し的な曾呂利新左エ門(木村祐一)も序盤から出番は多いが、裏の主役は茂助(中村獅童)になるだろう。

秀吉のように、百姓から侍大将になることを夢見るあまり手柄を横取りするため幼馴染(津田寛治)を殺してしまう。

偶然にも中村獅童は2004年の大河ドラマ『新選組!』でも、今作同様武士になりたくてしかたがないという強い憧れを持つ百姓を演じている。

ただ劇中での秀吉は自らの手を汚すことは決してせず、黒田官兵衛(浅野忠信)や羽柴秀長(大森南朋)にほとんどのことは任せていて本性は見せないようななんとも言えない恐ろしさを感じる。

笑えるシーンというか、時代劇という様式に対して、所々でたけし視点の鋭いツッコミが入ってくるというような感じで映画は進む。

長篠の戦い(ここも当然黒澤明『影武者』への目配せ)で、何度も徳川家康(小林薫)の影武者が出てきたり(伊賀越えでも似たような場面が繰り返される)、備中高松城の城主清水宗治(荒川良々)の切腹に至る作法の長さに苛立った秀吉が「さっさと死ねよ!」と言ったり。

時代劇や大河ドラマでは必ずと言っていいほどタップリ時間をかけて本能寺の変から信長の最期を丁寧にドラマチックに描かれるはずだったものを、武人の誇りなど関係のない外国人である弥助(副島淳)に一瞬でアッサリと首を斬られて死ぬという衝撃!!

アウトレイジ ビヨンド』の石原をフラッシュバックさせつつ強烈な尾張弁を実装した狂気の織田信長を加瀬亮がキレキレに演じている。

本能寺の変を経て終盤、中国大返しから山崎の戦いで映画は最終盤へ。

ちなみにこの映画では必ず戦場に遊女たちが同行している。良い稼ぎの機会ということだろうが、これも通常の時代劇ではほぼ描かれない。

戦が起こるたびに戦果を挙げようと落ち武者狩りや、ついには味方の大将の首を敵の首を取ったと詐称してしまうほどに「首」を取ることに執念を燃やす茂助。

ラストシーンでは自ら首を斬って自害を遂げた明智光秀(西島秀俊)の首級を奪おうとするも落ち武者狩りの農民に竹槍で突き殺され、ジ・エンド。

本編の最期は首実検をしていた秀吉が光秀のものかどうか判断できない首を蹴り飛ばし「どうだっていい。光秀が死んだということさえわかればいいんだ」と言う。

消えた信長の首を探していた光秀に対して、秀吉は首そのものではなくもっと形而上的な視点で物事を見ていたという、ここに天下を取る人間とそうでない人間の差があったのだろう。家康に対して「先に天下を取らせてください」とかも。

で、秀吉が首を蹴ったと同時に暗転映画はスパッと終了。

仰々しさや壮大な展開などなく、急に終わるのがまるで漫才とか落語の終わり方みたいで、こういう北野武監督の演出が大好きだ。

追記: たけしもさすがに秀吉やるには老いたなあと思ったけど、耄碌唐入り暴走編とかやってくれたらハマりそう。

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