見出し画像

FM COCOLOの番組、CIAO765でDJの野村〝まちゃお〟雅夫さんに『コロナの時代の僕ら』についてインタビューしてもらいました。

ええっといきなり情報量の多いタイトルですが、そもそも野村さんという方が情報量の多い個性的な方なので、最低でもこういうタイトルになってしまうのです。DJでもあり、翻訳書もあるイタリア語の文芸翻訳者でもあり、イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」代表でもあり、、、しかもイタリア生まれのイケメンなのです。きっとまだまだ隠し球のあるマルチな方だろう——お会いしたことはありませんが、そうねらんどるぞなもし(by 漱石 with Bocchan)。

たしか、3年ほど前に拙訳『リラとわたし』のレビュー記事をエゴサーチしていて、こちらのドーナッツクラブの下のリンク先の記事に出会ったのが、慣れの染めではなかったかと思います。少なくとも僕のほうはそのころから、なんとなく野村さんとドーナッツクラブの存在を意識していました。きっと、なんとなく流れで中国雲南省シーサパンナ自治州からイタリアの過疎の村に流れ着いてしまった僕なんかより、みなさんイタリアの文化にもきっとお詳しいのだろうな、、と、いい意味で少し緊張したりもして。

それで気づけばTwitterで相互フォローになっていたのですが、今回、とても丁寧なメッセージをいただいて、「僕のラジオ番組で『コロナの時代の僕ら』についてインタビューをさせてもらえないか」というありがたいお話をいただいたのです。

残念ながら生中継に出演するとなると、イタリア時間で朝の3時以降でしたので、その時間は起きていたとしても(まさに今のように)大概もう酔っぱらってるから、生中継は危ない、きっと放送事故になります。あのおっさん調子に乗って、ギター抱えて憂歌団の『おそうじバチャン』とか歌っちゃうかもしれないし、近所迷惑で憲兵隊がうちに駆けつけるくらいで済めばいいですけど、やっぱり日伊両国の平和と未来のためにやめておきましょう、è assolutamente da evitare、メールインタビューでなんとかしましょう、という話になりました(少なくとも僕の中では)。

それで、野村さんにいただいた質問に答えたのですが、まあ、これ全文は到底読み上げられないだろうな、という量になってしまって、放送が終わったら原稿をこちらのノートに転載して、日記がわりにしてしまおう、という魂胆でいたら、先手を打たれてしまいました(嘘です、野村さんは紳士です。きちんと僕の承諾をまず求めるという手順を踏んでくださいました)。

それが上の記事です。なのでこちらには転載しません。今回の記事の目的はこれで果たされたのですが、少しだけ、落ち穂拾いみたいな真似をしてみようかと思います。

まず最後のほうに出てくる『反戦の手紙』について。もうとっくに絶版ですが、僕の記念すべき最初の訳書であり、多くの方の助けを借りながらも、僕が自分で見つけて、いわゆる持ち込み企画で翻訳出版を実現した(依頼仕事ではない)今のところ最初で最後の作品です。

あの時も今のコロナではありませんが、9.11テロ直後で世界が大きく揺れていました。そしてあの時も、作者から日本版だけに特別に前書きをもらい、今回のジョルダーノのあとがきのように、夢中で訳した覚えがあります。それが次の、昔作っていたホームページにある『わが日本の友よ』という文章になります。17年前。まだまだ翻訳も粗いですが、今の僕がなくしてしまったストレートな熱があるかも。

そうそう、野村さんのメールインタビューで「お住まいのモントットーネ村と、ジョルダーノの暮らすローマでは環境がまるで違うと思います。飯田さんが今忘れたくないことは何でしょう?」という質問をいただいて、こんなことを答えました。

『ありきたりですが、いつまでも続く気がしていた日常が、崩れる時は実にあっさりと崩れるものだ、という驚き、そんな時、自分はとりあえず何もできないものだというふがいなさでしょうか。そして、その一方、人間の世界が大混乱におちいったとしても、庭先の緑から空から、近所の林から遠くに見える山々にいたるまで、自然界はまるで何ごともなかったかのように平然とそこにある。むしろ、いつもに増して美しく見える。そのことに対しても驚きました。当たり前と言えば、当たり前なんですが。また、そうした環境に住んでいる自分の幸運に感謝する気持ちも湧きました。』

これ、今読み直してみて、『反戦の手紙』で、テルツァーニが晩年を過ごしたトスカーナのオルシーニャ村で書いた最初の章にもそっくりな文章があったの思い出しました。

『(9.11テロの映像を映す)BBCとCNNの映像に数時間くぎづけになったあと、わたしは森に散歩に出かけた。そこで、自然界が事件にまったく無関心であることに気がついて、どれだけわたしは驚いたことだろう。栗の実が熟れはじめ、谷からはその年はじめての霧があがってきていた。そして耳には、いつものように遠い沢のサラサラいう水音と、ブルナルバの飼うヤギたちの首のベルが鳴り続ける音が聴こえていた。わたしたち人間の世界のドラマに、自然はあくまで無関心だった。まるでわたしたちには少しの存在価値もなく、たとえいなくなったとしても、そこに大きな穴が開くことはないとでも言うかのように。』(『反戦の手紙』ティツィアーノ・テルツァーニ、飯田亮介訳、WAVE出版)

真似たつもりはもちろんなかったのですが、『コロナ』を訳していた時も、これはどこかテルツァーニのあの本と似ているという気持ちがずっとしていました。ジョルダーノも、テルツァーニも、ひとつの歴史的な破局で、特定の誰かにでも国民にでもなく、人類全体に反省を求めたからなのでしょう。

さて、あとはリクエストで上げた5曲のYouTube映像でも貼って終わりにします。各曲解説書き出すと長いので、いつか気が向いたら、追記します。

マドレデウス『A estrada do Monte』(山へと続く道)

ミーナ『La Banda』(音楽隊)
ミーナという歌手は実はそこまで好きではないのです。たしかに低い声から高い声まで非常に正確で幅の広い声が出るなあ、とは思うのですが、それをひたすらひけらかしているばかりという感じで。特に高いほうの声が僕は苦手。これは個人的な生理的限界のようなものかもしれません。ごめんな、ミーナ。
でも、この歌は聴くたびにじわりと来るものがあります。いつか訳詞を書いてみるかな。たぶん僕が惹かれているのは詞だと思うので。自意識過剰で踊れぬ僕も、この歌に出てくるような、思わず踊りだしたくなるような音楽隊が通るのを、どこかで待っているのだと思います。

チェレンターノ『La storia di Serafino』(セラフィーノの物語)

フランコ・バッティアート『Nomadi』(流浪者)

道 / Yumirose


『コロナの日々の僕ら』はこちらのリンクからお買い求めいただけると、貧しい翻訳者の懐にエスプレッソコーヒーにして1/2〜1杯分相当のお小遣いが転がりこむようです(数名様からすでにご注文いただきました。本当にありがとうございます! バールの営業が再開されたらすぐに飲みに行きます)。

同じパオロ・ジョルダーノの、やはり僕が訳しましたベストセラー小説『素数たちの孤独』はこちらです。この作品についてはまた何か書いてみようかな。イタリア語で読んで、文体に惹かれたのは初めての体験だったかも。

ここ3年ばかりはこちらの大作と取り組んできました。『ナポリの物語』4部作の第1巻『リラとわたし』です。第4巻『失われた女の子』は、2020年度日本翻訳大賞の最終選考に残っています。頑張れ。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?