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偽りのトゥルーエンド: シン・エヴァンゲリオン

※この記事は「シン・エヴァンゲリオン劇場版」に関するネタバレを含みます。
※なお、この記事は第一印象をもとに語ったものです。
※別途「シン・エヴァンゲリオンをトゥルーエンドという前提で解釈する」という記事を書いたので、ハッピーエンドとしたい人はそちらをお読みください。

まずはエヴァンゲリオンが終わったことでほっとした。初日に観にいき、別日で2回目も観た。もやもやとした感情の整理するために時間がかかったが、感想を書いておく。

前書き

TV版1話からリアルタイムで追ってきた。ビデオ録画をしつつ、学校から帰ってテレビ前で待機して、毎話みた。TV版のラストは好きなので、あれで終わっていてもよかった。

旧劇場版のシト新生では、ゲーセン仲間と交代しながら徹夜組として並んだ(さすがに一週間前は早すぎて劇場側から解散させられ後に整理券が配られた)。なお初日の舞台挨拶の上映前に、舞台上から観客席に向けてカメラを回していたので、おそらく「Air/まごころを、君に」実写パートの劇場内の観客として自分も写っていると思う。なお、当時は旧劇エンドは許容できなかったが、いま振り返ると旧劇のほうがよかったと思える。

そういう26年という年月の重みがあるからこそ、今作も楽しめた。第一の感想としては「面白かった」だった。エヴァンゲリオン終わったんだなということも実感できたし、ある程度は満足した。

一方で物足りなさは感じている。中途半端に終わった感もあり、整理するため、ここに感想を書いておく。

なお、エヴァを追ってきていない人には、シンエヴァはオススメできない。名作ではないし、怪作でもない(エヴァンゲリオン全体は怪作だったと思うが……)。新劇の序と破が素晴らしいだけに、Qとシンの出来は残念である。

青春の一幕がたしかに終わったのだということを、その幕切れはどうあれ、確認したい人が観にいくものだ。

書きたいことが多すぎるので、この感想では主要登場人物のアスカ、レイ、シンジについて書く。他の人物、映像、アクションなどについては別途機会があれば書きたい。あるいは追記していく。

惣流アスカ

惣流は母親にトラウマがあり、TV版はみていてつらいほどだった。だからこそ惹かれる人も多かったのだと思う。ただ私は、あまり惣流アスカは好きではなかった。

親に関連する悩みがあり他者から評価されること、つまり親から得られなかったものの穴埋めを求めており、シンジと役割がかぶっていたからかもしれない。

シンジの救済の役割を担うのは惣流アスカではないことは後半にはわかってきてしまう。一方で、旧劇のラストでシンジを拒絶したことはとてもよかったが……。

式波アスカ

式波アスカは、惣流アスカに比べると、かなり明るく描かれたキャラクターだ。惣流にあった暗い描写(シーン)は、式波には少ない。戦いにひたすら立ち向かっていくその前向きさ。

個人的にはとても好きなタイプのキャラクターで、新劇からは、アスカのファンとして観るようになっていた。もはやヒロインではなく、新劇の主人公だったと思う。

アスカに感情移入していったことは、観客である自分が年を重ねることで、シンジとの乖離が大きくなっていたことも関係しているだろう。

シンでは、式波アスカはクローンであることが明かされた。そういった出自であるから、自分の価値を証明しようとして戦い続けているのだ、という動機の部分が分かったことはよかった。

今作では「大人になる」というセリフが何度も登場する。アスカが大人になるとはどういうことだろうか。

破においては、シンジたちとの共同作戦の後に「一人では何もできなかった」だったり、孤独を意識するようなセリフがあったりする。このあたりはまだ子供っぽさを感じる。また、戦いで結果を出すことで周りから認めてもらいたいという焦りもある。

ところがQ以降では、そういった描写はない。ひたすら戦っている。

破からQの間にアスカには何かがあり、そこで大人になってしまっていた。心の成長(なにかの克服、乗り越えること)はエヴァの重要なテーマだが、アスカに関して、それが描かれなかったことが非常に残念でならない。

シンにおいても、アスカの子供っぽさを感じさせる描写が、いくつかあることはある。

ケンスケに多少の心は開いているものの、村は居場所ではなく守る場所と語り、村の人々との交流もない。

ゲームばかりしているところも変わらない。破でも、家でも学校でも水族館でもゲームしていた。

(なおラストの駅でもゲームしている。このゲーム機は、シンジがカセットテープとイヤホンで周りを拒絶しているように、アスカも自分の世界に閉じこもっているという描写だと思っていたのだが、そうすると、ラストにおいてもまだアスカは救われていないのだろうか?)

シンジに対する怒り。おそらく、戦わないシンジを、戦っている自分と対比させて怒ってしまうのだろう。この怒りは、あるいはまだシンジに期待していることの裏返しだったかもしれない。

また裸を見せることをなんとも思わない(破のときはシンジに蹴り入れていた)ところは、摩耗してしまったことの現れで、長年の戦いの日々のつらさを思わせる。

とはいえ、破で悩み苦しんでいたアスカは、もういない。

Qの冒頭でアスカがシンジに対して怒っていたことについて尋ね、シンジが「決断しなかったこと」と、答えているシーンがあるが、その答えは違うはずだ。アスカはシンジの回答の正否には答えず「大人になったのね」とだけ返す。

あのとき、親しくなりつつあった戦友の生死の際にいた14歳の少年が、戦えなかったことは、長い年月のなかで、やむを得ないことだったと理解できたであろう。

Qの冒頭で「怒りと悲しみ」とアスカが語るそれは、いつ終わるともしれない戦いの疲れと、その半分を担ってくれるかもしれなかったシンジへの期待と、勝手に期待してしまった自分自身への怒りと、そして、あり得たかもしれなかった、破で描かれたあの幸せの日々への寂しさである。それが、シンジの顔をみたときに、一気に思いが駆け巡ったのだろう。

さて、アスカはエヴァ的(精神的)にはもはや救われている。

いや救われてはいないのかもしれないが、アスカはもう不可逆的に大人になっており、エヴァンゲリオンの流れのなかでは、新たな救いはもはやありえないように思えた。そのためシンにおいては、心の面ではなく、アスカがこの戦いから解放されるのかどうか、という点が描かれることを期待していた。それはとんでもないラストによって示されるわけだが……。

シンにおいてわずかに示された心の面での救いとしては、戦いの外における居場所、戦いとは無関係に認めてもらうことだ、というケンスケとの関係性におけるシーンだ。これまでのアスカは、戦いのなかでは生きられるが、まだ戦いの外では生きられなかった。シンにおいて、そうではなくなりつつある、ということを示したのだと思う。

であれば、ケンスケがその位置にいるのは、自然だったと思える。それを与えるのはケンスケでなくてもよかった。しかし周りにはケンスケの他にだれもいなかった。シンジは14年間ずっといない。

また、綾波がシンジを好きになるようにデザインされているのと同様に、式波もそうデザインされている、その可能性が頭をよぎったのかもしれない。

アスカの抱える悩みは特別なものではなく、人々が普通に持っているものであることの裏返しが、特別ではない普通のケンスケがいるだけで救われるのだ、というあの答えだったのだろう。

解釈してみるとなるほど分かりはするが、描写としてはあまりに唐突だった。無難な答えを用意したのだなというほかない。

TV版〜旧劇〜破まで特別だったヒロインが、Q〜シンでは強い戦士になっていて、普通の承認こそが必要だった……? いや、やはり破とQの断絶がいかんともしがたく、置いていかれた感が強い。

シンジに好きだったと伝えることで、区切りをつけたのはよかった。このことはQからシンにおけるアスカの怒りに対する救いにはなっている。また終盤の海辺のシーンでは身体も大人になっており、エヴァの呪縛から解放されたことを示していたのは数少ない救いだった。

レイ

アヤナミ(黒いほうをこう呼ぶ)が第三村での生活で感情を知っていくのは、やや急ぎすぎだったように思う。

何らかの感情を自分の中に自覚したとしても、それを言葉として表現するには、これまでの人生で他者を通して得た経験と観察によるしかない。それがないアヤナミは、もっと戸惑ったり、感情を把握・表現できないはずだ。

とはいえ、アヤナミが綾波とは別の人生を生きながらも、綾波と同じような感情を得ていく構図は分かりやすい。描ききれていないシーンも多々あるだろうから、急ぎ足はしょうがないのかもしれない。全体としてはとてもよかったと思う。

なお、第三村については、アヤナミのストーリーのために用意された舞台感がある。妊婦、ツバメ、猫と子猫など、命を繋いでいく生物・生命を連想させるモチーフが登場するが、それはいままで描いてきたエヴァンゲリオンのストーリーやテーマにはないもので、やはり唐突である。

それと自然。まさか「土とともに生きろ」のようなことがエヴァで語られるとは。農作業のシーンでは、年配の女性が中心となったステレオタイプの描写がなされている。第三村にいるはずの男たちは、基幹産業の農作業をしないでなにをしているのか? ついつい気がそれてしまった。

話を戻す。

綾波およびアヤナミは、人によって生み出された存在であり、作品中、いわゆる人形的な描写がなされている。レイにとって、人間性の獲得と、仕掛けからの脱出が救済といえよう。破では綾波が、シンではアヤナミが、感情=人間らしさを獲得していく。シンではそれが名前を得ることになっているものよい。

アヤナミが、名前を得て、好きが分かり、ATフィールドを失うことで消滅してしまう。まさにそこが救いの到達点でもあり、寂しさと嬉しさを両立させる、よい終わりだった。

また、最終決戦で出てきた綾波はツバメのぬいぐるみを持っていた。あれはアヤナミの体験なので、アヤナミと綾波が深層意識でもつながってるという可能性を感じさせ、観客としては救いでもあった。その理由づけは示されなかったが……。

綾波の髪が伸びてたのもよかった。レイも長い年月を戦い続けているわけで、その思いの強さをうまく表現していた。

ひとつだけ文句をつける。

綾波がシンジを好きになるようにデザインされているという設定はつけてはいけなかった。

綾波レイが、当初はゲンドウに懐いているなかで、人付き合いを通じてシンジに思いを寄せていくことが、人間性の獲得であり、レイの救いであったはずだ。序・破で描かれた素晴らしい描写たちが、実は、ただそう設計されたクローンだったからなのだ、という後付けの設定によって、薄っぺらい嘘の物語だと否定されてしまった。

これはあまりにも耐えられないので、ここでは「アスカが嫉妬して嘘をついた」ことにしておく。

シンジ

もともとシンジは、深い苦悩があるキャラには見えなかった。いや、TV版のときは、あるいは序くらいまでは、それなりに悩み苦しんでいたかもしれない。

破では、料理や弁当を作り、みんなに振る舞う。トウジやケンスケとも仲良くなり、アスカやレイに弁当を渡し、加持やミサトとも普通にコミュニケーションをとることができる。アスカとはちょっといい感じだ。作戦後にゲンドウに褒められて嬉しそうにする。

そんな、どこにでもいる普通の少年だし、もはや悩みの大半は乗り越えたようにさえみえる。

ただ、戦いに巻き込まれ、そのことで苦しむ。もちろんゲンドウとの葛藤はあるが、まわりとうまくいっていることで、人間関係に関して悩んでいる部分は、破以降では、やや薄味に感じられたかもしれない。

シンの冒頭では長く落ち込んではいるが、第三村で立ち上がって以降のシンジは無敵であり、悩んだり苦しんだり、もうしない。

その立ち直りは、みんなが優しいこと、好きでいてくれることにある。シンジの観点からすると、それでよい、それだけでよいのだと、TV版のラストを連想させるもので、個人的にはよかった。

ただなぜ、みんながシンジを好きなのかは描かれない。シンジはニアサードインパクトにおいては単なる構成要素・道具のひとつであり、主犯ではない……として解釈すると、村の人々が恨みをもっていないことは分かる。しかしそうするとQやヴンダー乗員との整合性がとれないが……?

まあそこには目をつむることにしよう。

重要なのは最後の戦いだ。

謎めいたエヴァンゲリオンの世界をどう戦い、生き抜くのか。そして謎の鍵はゲンドウにあるので、シンジの抱える悩みであるゲンドウを乗り越えることとエヴァンゲリオンの謎と戦いがリンクしているわけで、そこが一気に解決されるところに、エヴァンゲリオンの集大成としてのカタルシスがあるのだろうと期待していた。

しかしなんとシンジは、ゲンドウと「対話することを決意」するだけで乗り越えてしまう(まあエヴァで戦いはしたけれど)。

いざ話してみればゲンドウ側が悩みを語りだし、シンジはそれを聞いているだけだ。相手の話を聞くことで、ラスボスを倒してしまう。コミュニケーション・スキルの基本こそが最強の槍だったというわけだ……。

なお、ゲンドウの自分語りはちょっとどうなのかと思った。ストーリー描写ではなく、モノローグで説明してしまうのかと。ただ、これを庵野監督の思いの吐露として捉えると、自分語りしてしまうその格好悪さ、恥を忍んででも語る姿をあえて描くことに意味があったのだろう。

そうすると「大人になる」「けじめをつける」という、作中で繰り返されるセリフが、庵野監督自身が、どうしようもなくなったエヴァを終わらせるために、自分に言い聞かせながら必死にシンエヴァを描く姿が目に浮かんだ。

なるほど。そういうことだったのだ。シンでは、説明セリフが繰り返され、ストーリー展開はあまりなく、セリフ語りで話が進んでいく。それらはすべて庵野監督の、庵野監督自身へ向けた励ましの言葉だったということだ。エヴァの呪縛にとらわれているのは観客ではなく、庵野監督なのだ。

そしてラストについて。

シンジはもう大人になったんだから、マリが助けに来なくても抜け出せ(自立しろ)よ、とは思った。

シンジの物語はゲンドウとの戦いであり、対話によってそれを乗り越えたあとなのだから、あとからマリが来てもそれは救いではない。マイナス宇宙からの脱出ではあるが、それとシンジの心の救いのタイミングがリンクしていない。ちぐはぐだ。

第三村で、トウジやケンスケやアスカやアヤナミ、みんなが優しいこと。アヤナミが好きだと言ってくれたこと。残された人々が強く生きていること。そういったことですでに救われ、立ち上がった時点でシンジの心の物語は山を超えてしまっている。観客としては、ラストより手前で、シンジに関して安心させられてしまっているわけだ。

であれば、シンジは独り立ち(カップルにならない)エンドでもよかったのではないだろうか。

カップルになることでしか救われないような世界が、シンジの願った世界、庵野監督の考える世界なのだろうか?

エヴァンゲリオンを庵野監督の私小説として考えると、そうなのだろう。一人ではどうしようもなかったところに、女神がやってきたことで救われる。というのは庵野監督の実体験なのだろう。

そうだとしても、全員がそうあるべきなのだ。他の救いはないのだ。といわんばかりの奇妙なラストは、シリーズ中でも最高潮の気味の悪さである。ここでこそアスカに「気持ち悪い」といってもらわねばならない。

ただしマリはユイからシンジを託されている可能性があり(漫画版参照)、そういった点から、ずっと近い距離にいたから、というのはありうる。

あるいは、鈴原サクラでもよかったのではないか。シンジが最初にエヴァに乗った戦いで、傷つけそして同時に救ったのが、サクラである。そしてシンジは、サクラの家族や友人たちの仇でもある。

新世界においてエヴァがいないのであれば辻褄は合わないが、サクラと一緒にいるということは、それらと向き合った=自分の引き起こしたことを事実・過去として受け入れることができた、ということである。それこそが、ゲンドウとの対話以上に、シンジの成長であった……という解答もあったのではないだろうか。

とはいえ、シンジはマリと走っていった。作中でマリとシンジの接点があまりなかったことや、マリの描写が少なく目的も明かされなかったことなど、やはりストーリーとしては腑に落ちない。

ラスト

シンを語る上では、破の展開を振り返る必要がある。

破では、平和で温かい日常と、みんな(シンジだけでなく、アスカやレイも)が救われていく希望をこれでもかと見せつけられる。

シンジがみんなとうまくやっていく日常が描かれる。アスカは孤独に寂しさを覚え人付き合いに前向きになる。レイも感情を知り人間らしさを獲得していく。海洋生物研究所で海を浄化する研究を行っており、人類としても未来へ希望があることが描写される。

そういったシリーズ中における幸せのピークへ持っていったあとで、観客は絶望のどん底に突き落とされる。アスカが使徒に侵食され、それをシンジの搭乗する初号機が破壊する。しかもコントロール外で。

あらためて振り返ってみて、この破の展開は最高に素晴らしい。

だからこそ全体の最終幕においては、あの破での感情の落差・振れ幅を、逆方向に振ってほしかった。破のラストではそれを一度やっている(シンジが立ち上がり綾波を救い出す)。そしてカヲルの槍で再度落としたところで途切れる。素晴らしいジェットコースターのような上下である。

シンにはその締めが求められた。感情的な盛り上がりに、怒涛の謎解きが加わることで、より一層のカタルシスがあったはずだった。もちろん、観客を気持ちよくさせることが正解というわけではないが、シンはその道は選ばなかった。

さて、シンのラストについて。

まず第一の感想としては、シンジが新しい世界を構築してしまったことで、いままでが「無かったこと」にされたのかと愕然とした、というのが第一印象だった。

駅のシーンとなるが、数年であそこまで復興したとは考えられず、第三村の描写もなされないことから、別の世界線であろう。

※ここの解釈はどういうものなのか、この記事を書いた後にでも他の人の記事を読んでみたい。私はあまりエヴァンゲリオンにちりばめられた秘密っぽさや仕掛けにはあまり意識を割いていないので、普通に「新たなエヴァのない別世界になった」として観た。

とんでもないちゃぶ台返しによる終わらせ方だ。夢オチではないのだが、それに近い。空虚、脱力である。

苛烈な戦いの中を生きた式波アスカ。

仕掛けによって翻弄された綾波レイ。

ミサトや加持やリツコや、ネルフの人々。

みんなが戦って、そして何とか獲得していったものは、こんなことで「無かったこと」にされるのか?

いや、戦って獲得したのが、この平和な世界とでもいうのか?

新しい世界にエヴァがないとしたら、アスカやレイはそもそも悩みの元になっていた事象そのものが無いわけで、普通の人生をおくっているだろう。というよりは、クローンである彼女たちは存在しないのでは? 駅にはいたが、いったいどういうことだろうか。

彼ら彼女らが悩み、戦い、それを乗り越えたことに、嬉しくて安堵さえしたというのに、せっかく丁寧に各登場人物(ミサトやリツコやマヤなども含めて)を救ってきたのに、物語は別の世界へと移ってしまう。

この世界にはエヴァはなく、事件は起きておらず、まだみんなは救われていないのだろう。リセットすることで、せっかくみんなが乗り越えた・成長したことを、台無しにしているのである。

これが、シンジの作った世界であることも、気持ち悪さのひとつの要因であろう。

新劇〜シンを通して、シンジは立ち上がり、他者と向き合い、ゲンドウを乗り越えたかと思った。ところが、シンジは自分の考える心地よい世界を作り上げてしまい、そこに逃げ込むのである。

戦いに散っていった他の人々の願いはもはや関係ない。第三村に生きる、したたかな人々、妊婦やツバメなどの未来も、もはや関係ない。それはシンジの願いにはいない存在なのだ。マリという女神が降臨してくればよい。

融合することでひとつになり他者のいない世界、傷つくことのない世界になる、という補完計画を拒否して先に進む、というのは旧劇でも示された道だった。

であれば、シンにおいても、あと一歩だけ先に進んでほしかった。

いいほうに解釈するのであれば、あの新世界もやはりシンジにとって(あるいはすべての人々にとって)優しいだけの世界ではなく、辛いことも悲しいこともあるのだ、とみる余地があることだ。

旧劇のアスカほどではないにせよ、やはり他者とは相容れないこともある、という描写・示唆があるべきだった。そうしていれば、なるほどシンジは前に進んだのだという解釈が腹に落ちただろう。

新しい世界における、彼ら彼女らがどうなっていくのかは、もはや明らかにされないだろう。

さいごに

「さよならは、また会うためのおまじない」であることに期待したい。しかしシンの後を描くことはできないだろう。

破とQの間に大きな欠落があるので、そこの穴埋めは観てみたい。とはいえ、Qが決定的に新劇を破壊してしまったので、もうどうにも修復できなかったということはシンからうかがえる。

結局のところ、トゥルーエンドにはたどり着かなかった。26年では見つけられなかった。三度とんでもないものを投げつけられた気分だ。しかしそのことはむしろエヴァンゲリオンらしいと思った。


さらば、エヴァンゲリオン。ありがとうございました。

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