救われるために海に行く
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救われるために海に行く

昨日、海に行ってきた。
海に行った話とか、最近の話。

先日、数少ない心の内を話せる人から「ここ数年、ずっと仕事の話ばかりじゃん。そんなに嫌なら、辞めて、責任が少なそうなバイトでも探しなよ」と言われた。

それを聞いて、正論だなあと思った。そうなのだ。辞めたら良いし、辞めたら全て解決するのだ。でも、なぜだかいつも、その策には従えない自分がいる。正しいんだけど、上手に説明できないんだけど、それが出来ない。

説明できないものを、うまく説明できないまま、これまでのことを謝って電話を切った。

正論を頭の中で反芻しながら、正論って正しいのに救われないと思った。

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心にポジティブな感情がある人が羨ましい。私は、心がネガティブな感情で埋め尽くされやすい。

仕事に就いていない時は大丈夫なんだけれど、仕事に就くと必ず。心配とか、不安とか、責任とか、恐怖で心がいっぱいになる。だから、話の内容もそんな風になってしまう。noteに書く内容も然り。

ポジティブとネガティブを共存させるのが難しい。数学でプラスとマイナスを掛け合わせたら、マイナスになってしまうみたいに。オセロの角を全部取られたら、悲しいくらいひっくり返ってしまうみたいに。私の心の中では同じような現象が起きる。

だから、ポジティブが心の中で共存している人はすごいなと思う。

そんなことを考えながら昨日、車を走らせて海に向かった。用事も予定も、何もなかったけれど。

ひとりで砂浜に座って海を見た。長い間海を見ていると、無職時代を思い出した。用事なく海を見るようなことを、毎日していた日々を。

この感覚、懐かしいと思った。背負うべき心配も不安も責任も恐怖もなくて、ただただ心をカラッポにした日々。心がカラッポだった日々。

あんなにカラッポだったのに、仕事に就いて、任される業務とともに色んな感情が溜まっていたんだなあと思った。心のスキマが足りなくなっていたんだなあと感じた。

大きな海を見ていると、つられて、なんだか自分の心まで広がっていくように思えて、波と一緒に険しい感情が海に吸い込まれていく気がした。

海とは正反対に、ギュウギュウだったんだろうなと思った。スキマがないと、余白がないと、いっぱいいっぱいだと、何も考えられない。

私の専らの悩みは、仕事で向き合わざるを得ないバイオレンスな男の子だったのだけれど、その子に正論をぶつけていた自分に気がついて反省した。「人を殴ってはいけない」「傷つけてはいけない」「暴言を吐いてはいけない」

正論では救われないとさっきまで思っていたの、自分だったじゃんって。

“そんなに嫌なら、仕事辞めて、責任が少なそうなバイトでも探しなよ”という正論に上手に説明できないけれど従えなかった自分のように、“人を殴ってはいけない”という正論に、上手に説明できないけれど従えないその子の心があるのだろう。

なんで分からなかったのかなあと思った。

その子も連れて海に来たいなあと思った。その子が説明できない心の中の嫌な何かを、海が吸い取ってくれたら良いのになあと思った。でもそれは出来ないから、私が海のような人間になれたら良いのだろうなあと思った。

大人になるって難しい。昔は大人気ない大人の人に対して、一丁前に色々な意見を持っていた。けれど今、蹴られたり、教科書を投げられたりしたら、普通に嫌な気持ちになる自分がいる。

大人になったからって、自動的に海のような広い心は、子どもを救えるような広い心は手に入らないんだと思った。

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心にスキマを沢山作って、海のような広い心を持てるように頑張ろう。

心にスキマ作る大切さを忘れて、心をカラッポにする大切さを忘れて、私は何のために無職をやっていたのだろう。無職時代の学びは、すべてこのnoteに書いてある。そんな忘備録に心強さを感じながら、もっと堂々とやってみようと思った。

無職からも、フリーターからも、学んだことは沢山ある。大人になりきれていなくても、色んなことを経験している。そんな経験に、もう一度自信を持ってやり直してみようと思った。

これから無職になるお友達にもエールを向けて。無職の日々も、きっといつかの自分を助けてくれると思います。




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