夢を見る。時々(4)

 誕生日だった。数少ない友人からメッセージをもらった。
 16から知っている友人2人のグレープメッセージで、祝福のメッセージというより1人は本音の吐露で、自分の願い事の話だった。
 もう1人はそれを応援しながら、心配していた。
 願い事を見つけた過程や今の環境を、片一方は心配をしていて、心配の受け手側はあえてそれに気が付かないふりをしているようにも見えた。私はどちらの人生にも口を出すつもりはないし、自分の意見は一回言った。それを忘れたのかどうかもどうでもいい。今回は、後はそれぞれが勝手に決めろ。と伝えた。
 影響力は誰もが持つ。大きくも小さくも。それは別の誰かの人生に刺激を与える。
 守るものを持つ人は、その影響から誰かを仕方なく切り離すことがある。切り離したかったわけでもなさそうで、得体の知れないものが怖かったのだ。その行動はまともで、純粋な動物の生存本能を感じる。
 片や私を理解して。と理解に苦しむ行動をこちらに投げる行為には、どんな意味があるんだろう?
 もらった影響を手の平に置いて、落ち着いて眺めようにも、地獄の業火に焼かれるようだ。
 それは転がっていた罠に飛びつく姿。
 腹を空かせていたのだろうか。ガチャンと檻の入り口が閉まった様を遠くで眺め、少しだけ目を凝らす。私の体は、もう動かない。
 危険を省みずに走り出した友人と、餌を食べる檻の中の友人。
 違う世界を持ち寄って、たまたま出会った。だからって、同じ世界を眺めている訳ではなかった。
 私には檻に見えるその空間をどう捉えようも、それぞれの勝手だ。
 肩を寄せ合って怯えながら、どうにか生きてきたのだが、同じ星の同じ国の上で、大切なものが全く違うのかもしれない。
 見失った自分を探して、ただじっとそれに耐えることもせずに、何かして気を紛らわせる。刺激でそれを誤魔化す。で、檻の中。
 私には檻としか見えないが、それが自由への扉ならそれも良い。
 ただの現実逃避を、そうでないと言い張って証明出来るのなら、そちらに走って行けばいい。
 自分勝手な我儘で願いにまでも成長していないのならば、そんなものは無視され続けて当然だ。
 周りがどれだけそこから逃そうとしても、自分で入り続けるのなら、それはもう立派な自己としてこちらが受け入れるしかない。
 選べばいい。それで失うものに私が含まれていたとして、もうそれは伝えたのだし、それが自由ならば選べばいい。
 私は、その人が選ぶものを信じる。そして私なりに大切にする。
 今は受け入れるだけで精一杯だから、何も決めずに居る。
 その日は私の誕生日だった。3人で食卓を囲んで、私の好きなご馳走を食べた。それは手作りで、食べ終わるとプレゼントがするするすると落ちてきた。私のこれからを考えたプレゼントがそこに入っていた。
 見当違いの未来でも、精一杯私の未来を考えた気持ちがそこに溢れていて、そんなことが特別でもなんでもない当たり前の事だった。
 あの日のことも本当のこと。
 あぁ。と小さく呟いて、私も走る。
 どうするつもりなんだろう?
 走りながら、嬉しそうに檻の中で肉片を食べる友人が見えてくる。


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