料理するということ(1)

1. 苛立ち、ノスタルジー

僕は、自分で初めて能動的に料理をしてみようとしたことを鮮明に覚えている。あれは神戸の大学に入って2年経ち、寮を追い出されてその結果アパートを借りた頃。急な衝動だったことも覚えている。夏の真昼間、自主休講、蝉の声、20℃に設定しているのに一向に涼しくならないエアコン。何かに苛立ちやすい時期だったので、そのすべてに嫌気がさし、「よし、なんか料理してみよう」と思い立ったのだ。因果や合理性のまったくないモチベーションである。

プロフィールにもあるように、僕は鳥取県の出身である。浪人したので、約20年は鳥取県の赤碕という港町で過ごしたことになる。そこでの生活で、郷土料理なのか我が家のオリジナルなのかよくわからない料理をたくさん目にしてきた。たとえば「ちり」という料理。これはシイラやハマチといった魚を捌き(父親は漁師だった)、その内臓といわゆる「アラ」を出汁として、醤油や酒で味付けした汁を鍋に張り、刺身をしゃぶしゃぶのようにして食べる料理である。祖母が亡くなってからこの料理を目にしたことがないので、そして同郷の友人にこの料理の話をしてもなかなかうまく通じなかったので、これは我が家のオリジナル料理なのではと今でも思っているし、今だからこそもう一度食べてみたい一品だ。名前の由来がよくわからないところもミステリアスで一層食欲を刺激する。

もう一品紹介するとなると「水炊き」について語りたい。これはいわゆる博多名物のアレではない。使う具は割と共通しているのだが、完全に似て非なるものである。今の僕は博多風の水炊きを作れるのだが、それはびっくりするほどの量の鶏肉で出汁を取る。2時間くらい手羽先や手羽元を煮て、白濁したスープを作り、その中にキャベツや豆腐、時には白菜、水菜なども入れる。うまい。ただ、僕が幼い時に「水炊きだよ」と言って出されていたものは、本当に「水」炊きなのだ。つまり、鍋に水を張って沸かし、そこに豆腐と白菜と気持ち程度の鳥手羽を入れて終わり。出汁も取らない。本当に水で具材を炊いた(というか温めただけ)の代物だ。具材はポン酢につけて食べる。幼い頃はこれが大嫌いであった。「これはちょっと変わった湯豆腐だろ」と心の中で何回も思っていた。しかもこれは冬になると出現頻度が異様に上がる。ちょっとしたトラウマだ。今考えても、うちがそんなに裕福な家ではなかったからそのような格安料理が生まれたのか、母か祖母が「水炊きとはこんなもんだ」という信念の元にあれを作っていたのかはよくわからない。

話を戻そう。このような他ではあまりお目にかかれない(少なくとも赤碕以外では見たことがないし通じない)料理のひとつに「きんちゃん」というものがある。これは「ちり」とは違って、未だに母が作ってくれたりするが、簡単に言ってしまうと、大根と人参と里芋と豆腐を異様に甘く煮た料理である。人によっては甘辛く感じるのかもしれないが、僕は甘味しか感じない。「きんちゃん」という名前は、関東の「けんちん煮」が訛ったものであろうと推測できる。ということはこの料理はわりと全国区のもののはずだが、うちのはとにかく甘いのである。

冒頭で書いた様に、何かに苛立ち、世界を憎んでいた僕は(これは多くの場合、この当時聴いていた音楽のせいである)、この「きんちゃん」を作ろうとしたのである。これが悲劇とまでは言わないが、今でも自分の中で折り合いのつかない事件の始まりであった。

2. 存在、不在

さて、「きんちゃん」を作るためには何が必要か。大学生の僕は考える。当時、(本当に)必要最低限の調理器具は揃っていたので、やはり買うべきは具材だろう。「きんちゃん」と言えば、大根、人参、里芋、豆腐である。通常の思考ならそれらを買ってくるべきである。しかし、当時の僕は斜に構え、世界を斜めどころか真反対から見ようとしていたので(つまり捻くれ度が最高潮だったので)、なぜか「人参?豆腐?しゃらくせえ」と思ってしまったのだ。結果、スーパーから大根と醤油だけ買って帰った。今の自分が当時のことを振り返っても、明らかにこいつはバカである。

そして存在と不在について考える。気温は40℃近いんじゃないかと思われるほどのワンルーム。蝉はいよいよ怒号かのような勢いで叫ぶ。大根、醤油、ある。人参たち、居ない。なぜなのだと。その事実にまた苛立ちは募る。再び今の自分が振り返ってみるけれども、真性のバカである。しかしないものはない。大根は大根だし豆腐には変化し得ない。たとえ変化するにしても相当の淘汰圧に耐え、長い時間をかけなければならない。そう考えた僕は意を決してキッチンに立つ。

3. 絶望、覚悟

まず、大根を切る。常識的に切る。いちょう切りという名は知らなかったが、それらしく大根を切っていく。虚無。静謐。ちなみに、今の僕は料理が大好きで、毎日キッチンに立っていない時間の方が少ないくらいである。なんと言っても、この、食材を同様の形に切っている時や、大きな肉塊を煮ている時などの、虚無感が好きなのだ。何も考えない。ただ切る。切るならまだいい方で、煮込まれているものをただ凝視する。今流行のマインドフルネスにも似た、精神的安定が簡単に得られる。だから料理はやめられない。

よし、大根は切り終わった。多少厚さに差はあるが、これは「個性」であろう。そのように判断し、次の工程にかかる。煮るのだ。だが先述の様に、この部屋にある調味料は醤油のみ。本当に何もわかっていなかったのである。当時の僕は「きんちゃん」の甘味を痛烈に感じていたにもかかわらず、その源泉を醤油に求めてしまったのだ。だがないものはない。

鍋に大根、そして大量の醤油。着火。煮始めることで出所のわからない、なにか全能感の様なものが湧いてくる。ベースを手に持ち、L'Arc-en-Cielのwinter fallを弾きながら鍋を見つめる。狂人ここにありという感じだが、当時の僕は再三言う様にバカそのものだったのだ(今もだが)。だいたいwinter fallを4回くらい弾きまくった後、鍋の中の醤油が半減していることに気づく。「これは、できてしまった、否、作ってしまったのではないか。」テンションはここでマックス。俺、料理できるじゃんみたいな。次の工程は味見である。ここで一切れ大根を菜箸で挟み食べてみる。

塩辛い。というか正確に言うと、色と同様味も「黒い」。味が黒いと言うとわかりづらいかもしれないが、食べた時に「甘い」とか「辛い」とか、味覚に関する形容詞ではなく、「黒い」という色彩が浮かんでくるのであった。味である特定の色彩が喚起されたのは、半世紀弱生きてきてあれが最初で最後であろう。絶望である。いや、最早軽い絶望とかではない。なんというか、真っ黒に煮られた大根の集団が、神戸の片隅で、ある視点からは惨めにうつるような、そんな暮らしを続けている自分を、詰っている気がした。僕の在り方は「黒い」のだ。そして、誰からも食べてもらえない。いや、食べられたものではないのである。思えば僕は、世界を憎む体でずっと自分を憎んでいた。孤独ごっこ。絶望ごっこ。さよならごっこ。当時の僕が好んだそういった類いのものたちが、グロテスクな大根となって可視化されたのだ。これ以上の絶望があろうか(いや、それ以降の人生で僕はこれ以上の絶望をいくつも体験する。大根が黒くなったからといって一体なんなのだ)。

しかし、眼前の真っ黒の大根の集積が、自分自身の絶望を体現したものなのだとしたら、それは今消してしまわなければならない。人が変われるのは人生で一度だけだと言う。今日がその日なのでは。Today is the day. 僕は覚悟を決めた。この憂の塊の様な大根を食べ尽くす、と。ベースをストラップから外し、丁寧に壁に立てかけ、鍋の中を凝視し、そして、大きめのスプーンを手に取る。頭の中で、「絶望がラスボスじゃない」と誰かが呟いていた。

(続く)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?