「一人で死ね」論について【閲読注意】

最初に申し述べておくが、読者が今現在精神的に切迫している場合、本稿が悪影響を及ぼさないとも限らぬ故、念の為ここで閲読を中断し、難儀では あろうが、可及的速やかにカウンセリングを受けることを強く推奨する。

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《50代男が女児1名・男性1名刺殺、児童17名・女性1名刺傷の後、自殺》

「不遇を託(かこ)ち、将来に絶望した厭世自殺なら、いっそ富士の樹海に でも行って、他者を巻き込まずに人知れずひっそりやってくれよ。」
何を隠そう、筆者が川崎登戸殺傷事件を知ってまず独白した言葉だ。

こうしたいわゆる「一人で死ね」論は被害者、遺族関係者への感情移入から発露する激しい義憤と怨嗟から湧き起こる極めて自然な感情論だろう。

一方で、この「一人で死ね」論は潜在切迫者に関係念慮、被害念慮を誘発し自殺ないしは連鎖事犯を惹起する恐れがある故に公的に表明すべきでない、との言説は、極めて倫理的かつ合理的公益性を帯していよう。

ここで注意すべきは、前者の感情論と後者の言説は決して相克するものではないことだ。あくまで公私分別の対象であり、論争の対象では断じてない。
(“分けタコ🐙”「分けて考えろ、タコ」なのだ)

この二者をきっちり分けて捉え、後者の言説の倫理性、合理性を多くの者が受け入れられるか否か、まさに民度が問われよう。

感情論として、私的にはOKでも(そしてたとえそれが多数派であっても) 公的にはNG (私○公✖️)となるものの一つ、それが「一人で死ね」論だろう。

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最後に, 信仰者, (社会学, 倫理学, 福祉学, 宗教学等の)研究者, 弱者支援関係者,切迫経験者でもなく身近に切迫者がいないにもかかわらず感情論を抱くことなく, にわかに社会的包摂論を抱懐できた者がいるとすれば, 筆者はただただ感服する外ない。

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