オーストラリアでガイドをしていたとき、お客さんに、京都の漆職人だという一家がいた。お父さん、お母さん、小学生の息子さんの3人組だった。

職人だなんてすごいな〜と思って話を聞いていると、伝統工芸の業界は先細りだと教えてくれた。

旅行と同じく、伝統工芸は完全な贅沢品である。安い食器ならいくらでも簡単に手に入る時代に、わざわざ漆塗りの食器を高い値段を出して買う必要性は無い。それは完全に趣味のものであり、お金に余裕があるときにだけ買うものだ。

さて、資本主義社会は効率を求める。それは、あらゆる無駄を省き、目に見える効果が、最大限に、最短時間で、確実に得られることを目指す世界である。食べ物で言えば「早い、うまい、安い」の三拍子がそろうことが最重要課題である。

そんな世界と伝統工芸は原理的に相容れないものであることは容易に想像がつく。安く、多機能な化学物質が数多く開発された現代において、漆を始めとした古来からの技術は、多様な手間と時間をかけ、高価格の商品を少量だけつくるという、非常に非効率なものとして認識されても仕方がない。

そんな時代の波にのまれ、実際に暖簾を下ろしたお店もたくさんあったことだろう。しかし、それらは完全に無くなったわけではない。その証拠に、国内を旅行すると、必ずと言っていいほど各地のお土産屋さんに伝統工芸品が並んでいる。日本中に、まだその伝統が息づいている。これが重要な点であると思う。

つまり、一方ではファストフード店やコンビニの効率性を無批判に享受している私達が、他方では、効率などという概念とは無関係の作業の結晶である伝統工芸品に手を伸ばしているのである。

これが意味するところは、人間は効率ばかりを追い求める生物ではないということである。

考えてみれば、そもそも人間それ自体が非効率である。人間は寝なければならず、口から栄養を補給せねばならず、子孫を残すために奔走せねばならない。非効率の塊である。ゾウリムシを見よ。アメーバを見よ。

私達が伝統工芸品を買うのは、非効率な生物である人間の代表として、効率ばかりを求める世界に中指を立て、資本主義社会に対してアンチテーゼをぶち当てたいからではないだろうか。これは言い過ぎか...。

何にせよ、効率を求めることには限界がある。それは、物理的にもそうだが、もっと内的に、感情面で、それを拒否するものが私達に宿っているからである。

生きたいように生きたら良いと思う。



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