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手というシンプルな道具と、それが行う複雑な動作

手は非常に便利な道具である。

野球をするとき、ボールを投げるのも、打つのも、掴むのも、その全ては手の仕事にかかっている。

投げる、打つ、掴む、描く、捲る(めくる)、掻く、毮る(むしる)、持つ、拾う、拭く、捕らえる、押す、採る、探す、握る、揺らす、摘む、撮る、操る...

このように、動作を表す漢字の多くには手へんが含まれている。つまり、これらの動作は手の存在を前提としているということである。

手は様々な作業をこなす。しかし、実際の手の動きは、考えてみれば案外シンプルである。

五本の指を開いたり閉じたり。基本的にはこれだけである。肩の方まで含めて、腕全体で考えたとしても、ねじったり、肘を曲げ伸ばしたりする動作が付け加わるだけだ。

このようなシンプルな動作から、私達は無限に近いようにも感じる多くの作業を行うことができる。それはなぜだろうか。

それは、私達がそのように意味づけをしているからである。

繰り返すが、手がやっていることはシンプルである。しかし、その動作にTPOが加わったり、何か道具が加わったりすると、そのシンプルな動きが意味を持つようになる。私達が、意味を持たせるようになる。

それで、上に羅列したような様々な働きが可能になるのである。

人は意味から逃れられない。どれだけシンプルなものでも、いや、おそらくは、それがシンプルであればあるだけ、そこに意味を付与し、複雑に捉えようとしてしまう。頭が先行し、体を置き去りにしてしまう。

手が、(私達がそういうふうに意味付けをするので)限りある可動域と限りある動きの中で無限のことをなし得るように、ある種の問題は、さまざまな場面で顔を出し、それぞれが独立した違う概念であるように捉えられることがある。

何か複雑な問題に直面したとき、それは、ただ自分たちが過剰に意味を付与しているだけではないかと疑ってみてはどうだろうか。その問題は、本来は、もっとシンプルなことかもしれない。根本的な問題を解決すれば、全てが解決に向かうかもしれない。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!