それでも全力で助けたい…現役外科医が描く、感動の医療ドラマ! #2 泣くな研修医
大学を卒業したばかりの研修医、雨野隆治。新人医師の毎日は、何もできず何もわからず、上司や先輩に怒られてばかり。初めての救急当直、初めての手術、初めてのお看取り。自分の無力さに打ちのめされながら、隆治はガムシャラに命と向き合い成長していく……。
白濱亜嵐さん主演でドラマ化もされた、中山祐次郎さんの『泣くな研修医』。現役外科医ゆえの圧倒的リアリティが評判を呼び、すでにシリーズ4作品が出版されています。ハマったら一気読み間違いなしの本作、その物語の幕開けをお楽しみください。
* * *
隆治も手袋とマスクをつける。今から来る患者はかなり重症、いわゆる高エネルギー外傷というやつで、さらに一人は子どもだ。高エネルギー外傷はおろか、子どもを診た経験は、隆治にはほとんどなかった。それを知ってか知らずか、救急外来のナースが「いいものがありますよ」と言ってベッドに大きなシートを広げた。
シートには子どものシルエットのような線がいくつか描いてあり、それにあわせて推定体重と点滴などの量が書いてあった。おそらくこの救急外来でも小児をしょっちゅう受け入れてはいないのだろう、不慣れな医師たちのためのシートなのだ。
「夜分にすみません、外科の佐藤です。今から受け入れる救急患者の緊急手術のご相談で……」
佐藤は慌ただしくあちこちに電話をかけている。CTや手術、輸血などの手配をしているのだろう。
チューブや採血するための注射器などのセットを準備し終えると、隆治にはもう他にすることがなかった。さっきあと一〇分と言っていたから、今から三、四分で来るだろうか……。そう考えていたら、大きな体をした外科医の岩井が現れた。
「準備はいいか」
「はい」「はい」みなが答える。隆治もマスクを一旦外し、「はい!」と返事した。
「OK、手術になる可能性が高いからそのつもりで。あと心臓が動いていないかもしれないからね」
隆治はビクッとした。心臓が……だって?
「おい研修医」
急に呼ばれさらに驚いた。岩井の声は野太い。
「口の周り、カレーついてるよ」
岩井は笑っている。
「はい! すみません!」
急いでティッシュで拭いて、マスクをもう一度つけた。いつの間にか二人に増えたナースも佐藤も笑っている。どうしてこんな緊迫した状況で笑えるのだろう。隆治には不思議だった。その時だ。
ピーポーピーポー
遠くから聞きなれたサイレンの音が聞こえてきた。
「来ましたね」
隆治は緊張のあまり口に出してそう言った。誰も返事はしない。
佐藤は部屋の中をうろうろしている。岩井は腕を組んで、じっと立っている。隆治は手袋をした手を組んだり離したりしていた。
いよいよサイレンの音が近づいてくると、フッと音が途切れる。音もなく病院の敷地に滑り込んでくるその車には、今にも途切れそうないのちが乗っている。
佐藤が外に直接繋がる大きな自動ドアを開け表に出た。
「来たぞ!」
岩井が叫んだ。隆治はぐっと拳を握った。
「お願いします!」
若い隊員の声とともに白い救急車から降りてきたのは、ストレッチャーに乗せられた少年だった。ぐったりしている。そして父親と母親が降りてきた。父親は無事なようだ。母親は歩けないようで、すぐに車椅子に乗った。
隊員が一人駆け寄ってきて佐藤に報告している。その他の二人の隊員が押してきたストレッチャーは隆治がいるベッドに横付けになる。少年は「イチ、ニ、サン」の掛け声とともにベッドに移された。お腹には真っ赤なガーゼがこんもりと載っている。白目をむいており、顔色は真っ白だ。意識はもうろうとしている。
「両親はバイタル測ったら整形の先生に診てもらって!」
佐藤が指示を出すと、ナースが両親を連れて行った。
岩井は、
「とりあえず服を全部脱がせてモニターをつけろ」
と指示をする。
「救急隊からの情報ではチャイルドシートに乗っていたそうだ。あ、この子は五歳な」
ガーゼを外すと、お腹から腸が飛び出している。思わず隆治は外したガーゼでもう一度お腹を押さえてしまった。
「先生! 腸が見えてます!」
そう叫ぶと、佐藤が「見せて」と言ってガーゼを外した。ピンク色のきれいな腸に交じり、黒く変色した小腸も見えた。
「腹壁破裂と腸管脱出、一部損傷あり。今のところ活動性な出血はない」
佐藤の口調は普段と変わらない。ナースが記録した。
「バイタル測れました! 血圧60/34、心拍数140、酸素飽和度92%!」
別のナースが報告する。
「了解。酸素リザーバー八リットルで開始、佐藤はルートを二つ確保して同時に血算・生化を採り、研修医は動脈血採血を採れ。俺は手術室に連絡する。行く途中にCT撮りゃいいよな、今日の当番は美人の放射線科医だ」
岩井はそう言ってにやっと笑った。最後の一言は誰の耳にも入っていないようだった。
隆治は少年の小さい体の足の付け根を触り、動脈の拍動を探す。血圧が低いためか、なかなか見つからない。
「こっちルート取れたよ! 点滴繋いで!」
佐藤が早くも一つ目の点滴ルートを確保した。
――速い!
子どもでこの血圧だと普通は至難の業だ。
隆治は指示された動脈血を採るため、左手の人差し指と中指の先端に意識を集中させた。子どもの細い動脈を触れるのは難しい。手袋越しだから、なおさらだ。ましてこの血圧である。なかなか見つからない。隆治はさらに集中した。
段々と周りの音が聞こえなくなる。そして自分と少年だけになる。自分の存在は指先だけとなり、少年は動脈だけとなったその瞬間、動脈の拍動を捕らえた。右手に持っていた針をためらわずに刺す。針についていた注射器の中に赤い血が貯まっていく。「来た!」無意識のうちに隆治は声に出していた。
採れた血液をナースに渡す。
「もう一本ルート取れたよ、繋ごう」と佐藤が言った。
ルートを取る、つまり静脈に管を入れさえしてしまえば、薬でもなんでも入れられる。このような外傷患者の場合、ルートを取るのは必須かつ最優先だった。
「先生、血圧上がってきました、92の50!」
早速点滴の効果が表れてきたようだ。岩井が電話を終えた。
「手術はいつでもいけるそうだ。他の損傷をチェックして問題なければ手術しよう」
「わかりました」
隆治が答えた。尿の管を挿入し、血圧が安定したところでストレッチャーごとCT室に向かう。
CTを撮影すると、腰椎の椎体も骨折しており、肋骨も何本か折れているようだった。それ以外の臓器はダメージを受けていなそうだ。
「じゃあ手術室行こうか。連絡は済んでいる」
岩井が言った。「飯でも食いに行くか」というような口調だった。
*
手術室の前で隆治は岩井、佐藤と三人で「手洗い」を行っていた。どんな手術の前でも必ず外科医は「手洗い」という特殊な行為をする。時間をかけて手を洗い、アルコールを擦り込むことで手にいる細菌数を減らすのだ。その時間は、外科医にとって何か神聖な通過儀礼でもある。世俗から離れ自らの感情を封じ、患者の体と対峙する準備をするのである。
隆治は鏡で自分の顔を見ながら、アルコールを手に揉み込んでいく。手洗い場はなぜかちょうど顔の高さに大きな鏡があり、嫌でも自分の顔が目に入る。太い眉毛が外に行くにつれ下がっているのは、不安だからだろうか。その平凡な顔を見るたびに、隆治はがっかりした。なぜこんなところに鏡があるのだろう。外科医たちは自分の顔を見て集中力を上げられるのだろうか。
深夜〇時。とても静かだ。他の緊急手術はやっていないようだった。
この手術室は古い造りで、長い廊下沿いに1から10までの手術室が横並びになっていた。黄緑色の古びた床はあちこち汚れが染みついていたが、定期的にワックスがかけられているのか光沢があった。隆治が揉み込んだアルコールが足元に飛んで、床に大小様々な円の形を作っていた。
手を洗い終わり、三人は手術室に入った。岩井と佐藤は少年のお腹を茶色いイソジンで消毒し、鮮やかなグリーンの覆い布をばさっとかけた。布は中央に四角い穴が開いており、ちょうど少年の腹だけが露出した。その時少年は、顔も手足も氏名も年齢性別もない、家族も友人もない、その人格もない、ただの「腹部」となる。
外科医にとって患者の人格は、治療行為になんら関係ない。どこで生まれどこでどう育ち、何を考え誰を愛したかもまったく関係ない。ただその存在の一部である皮膚、筋肉、臓器、血管、神経、組織と対峙するのだ。そのためにはこの「覆い布」の発明は素晴らしかった。
岩井と佐藤が手際良く準備を進める。
「私の方に足台一つね。電気メス、吸引セットして」
「最初に腹の中洗うから、洗浄用の温かい生理食塩水出しといてね」
細かい指示を出す。
隆治は「執刀医」「第一助手」の次の三番目の外科医、つまり「第二助手」の役割で参加することになるようだった。
ようだった、というのは誰もそういうことをはっきり言わないからだ。動きや雰囲気から察するしかなかった。外科医たちはいつもそうだった。余計なことは口にしない。無駄口がないことで、発言全てに意味があることになる。それは洗練されたチームではより効率を高めた。
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