見出し画像

事故か、自殺か、それとも他殺か?…橘玲さん渾身の国際金融情報ミステリー! #2 タックスヘイヴン

シンガポールのスイス系プライベートバンクから1000億円が消えた。ファンドマネージャーは転落死、バンカーは失踪。マネーロンダリング、ODAマネー、原発輸出計画、北朝鮮の核開発、仕手株集団、暗躍する政治家とヤクザ。名門銀行が絶対に知られてはならない秘密とは……。

ベストセラー『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』などで知られる橘玲さん。『タックスヘイヴン』は、そんな橘さんによる国際金融情報ミステリー小説です。姉妹作品である『マネーロンダリング』『永遠の旅行者(上巻)』『永遠の旅行者(下巻)』とあわせて、お楽しみください!

*  *  *

比田勝に着いた頃には、太陽は黒い山の陰に落ちていた。釜山に向かう高速船の最終便が出航したあとで、ターミナルビルはシャッターが下ろされ、照明灯に照らされた駐車場に車の姿はなかった。

画像2

道路に近い一角に車を駐めると、鼾をかいて寝ている堀山を起こした。

「まだだいぶ時間がある。メシでも食わないか」

うなり声をあげながら上半身を起こすと、堀山はあたりを見回した。「なんや、さらにシケた町でんな」

土産物屋はとっくに店を閉め、明かりが灯っているのは港の向かいのビジネスホテルくらいしかない。その二階がレストランになっていて、船を待つ観光客相手に軽食を出している。窓際の端の席で、金髪の若い女が携帯をいじっているのが見えた。

「ここなら大丈夫でんな」堀山は車から降りると、大きく伸びをした。「最初はわからんかったけど、全財産を積んだ車から離れるいうのは恐ろしいもんですな。フェリーの航行中は誰も駐車区域には入れんようになっとることはわかってても、生きた心地はせえへんかった」

店のドアには「営業中」の札がかかっていたが、誰もいないようだった。堀山はかまわずなかに進むと、駐車場の見える窓際の席に腰を下ろした。金髪の女が面倒くさそうに立ち上がり、厨房の奥に入っていった。この店の娘で、親を呼びに行ったのだろう。

テーブルに置かれたメニューを見ていると、トレイに水を載せて娘が戻ってきた。濃いアイラインにつけまつ毛、両耳と眉に派手なピアス。格好だけなら、渋谷のセンター街にいてもおかしくはない。

「とりあえずビールや。二本」堀山はそういうと、壁に貼られていた料理の写真を指差した。「郷土料理の定食、まだできるん?」

「今日はもう終わりです」ぞんざいな口調で娘がこたえた。

「しゃあないなあ。ほなら活きのいい刺身を適当に盛り合わせて持ってきて」

「仕入れに行ってないからそういうのもできません」娘は窓の外を見て、わずかに明かりの灯った一角をあごでしゃくった。「商店街に居酒屋とか寿司屋とか何軒かありますから、そっちの方がいいんじゃないですか」

「そうはいかへんのや」堀山は娘の嫌味をまったく気にしていないようだった。「ほならなにができるねん?」

「カレーなら大丈夫と思いますけど」

「それでええわ。カレーふたつ。ないよりマシや」古波蔵の分も注文すると、「あと、つまみになるもん持ってきて。なんでもええから」といった。

しばらくすると、瓶ビール二本と皿に盛られたポテトチップスが運ばれてきた。

「シケた料理ですんまへんけど、大仕事の前に乾杯といきまひょ」グラスにビールを注ぎ、ひとつを古波蔵に差し出した。「最初に話聞いたときは簡単やと思うたけど、いざとなるとさすがに緊張しますな」

かたちだけ乾杯すると、堀山は一気にビールを飲み干し、手酌で二杯目を注いだ。古波蔵はビールのグラスに口をつけ、眉をひそめるとマールボロに火をつけた。娘が不機嫌そうにやってきて、テーブルの上に電子レンジで温めたカレーの皿を乱暴に置いた。

閉店の時間だと追い出されるまで、堀山はカレーとポテトチップスをつまみにビール二本と焼酎三杯を空けた。古波蔵はカレーにすこし手をつけたあとは、水を飲んでいた。

駐車場に戻る途中の自動販売機でコーヒーを買い、酒臭い息を吐く堀山を助手席に乗せた。約束の時間までまだ二時間以上ある。それを聞くと堀山は、「ほな、ちょっと寝させてもらいますわ」とシートを倒し、たちまち鼾をかきはじめた。

人気のない駐車場でしばらく時間をつぶしてから車を出し、海岸線沿いに県道182号線を北に向かう。三キロほど先の側道を右に折れると広い駐車場に出た。海沿いにある建物は釜山の街を望む展望所だ。

がらんとした駐車場の端に、ハザードランプをつけた軽トラックが駐まっていた。古波蔵もハザードランプを点灯させ、ヘッドライトを消してそのうしろに車をつける。堀山が目を覚まして、寝ぼけ眼であたりを見回した。

軽トラックから五十がらみの男が降りてきた。赤黒く日焼けして、髪を短く刈り上げ、額に深い皺が刻まれている。

男は車のなかを覗き込んで古波蔵の顔を確認すると、なにもいわずに軽トラックに戻って車を出した。そのあとについてしばらく走り、脇道に入ると平屋建ての古い家があった。屋根は剥がれかけてベニヤで補修され、玄関の脇に無造作に網が積まれ、隣に狭い畑と鶏小屋がある。男の自宅らしい。

画像2

裏庭の駐車場に、軽トラックと並んでバンを駐める。

後部座席からトレンチコートを取って、古波蔵は車を降りた。夜になると急に冷え込んでくる。

コートのボタンを留め、マフラーをきつく巻いた。吐く息が白い。あたりは漆黒の闇で、満天の星が瞬いている。

続いて降りてきた堀山がバンのリアハッチを開け、ダウンジャケットを取り出してライフベストの上から羽織った。乱雑に積まれた古着や毛布をかきわけると、その下から特大のスーツケースが出てきた。外側に太い鎖が巻かれ、後部座席に固定されている。堀山は鍵束を取り出して鎖を外した。

古波蔵は男に指図して五億円の入ったスーツケースを軽トラックの荷台に運ばせた。一億円の札束が約一〇キロだから、五〇キロの重さになる。

「ワシも荷台に乗ってよろしおまっか?」堀山が白い息を吐きながら訊いた。

「好きにしろよ」古波蔵は煙草に火をつけると、さっさと助手席に乗った。堀山は荷台に上がり、スーツケースを抱え込むようにして座った。

暗闇のなかに波の音がかすかに響く。古波蔵は目を閉じると、深く煙を吸った。

2

映画の舞台にでもなりそうな洒落たカフェで三杯目のコーヒーを飲みながら、牧島慧は落ち着かない様子で何度も携帯で時間を確認した。紫帆からは、子どもが幼稚園で熱を出したので一時間ほど遅れるとメールが来たが、すでに約束の時間から一時間半過ぎている。

店は表参道の交差点近くで、十二月だというのに屋外のテラス席では皮ジャン姿のフランス人のグループがワインを飲みながら談笑していた。昼過ぎの店内にいるのはほとんどが女性で、寝癖のついたぼさぼさの髪と黒縁の丸眼鏡、ユニクロのトレーナーという牧島はいかにも場違いだった。

カバンから英語のペーパーバックを取り出して読みはじめた。乳がんから奇跡的に回復したアメリカ人女性が、「がんは私にとって神の恩寵で人生を変える素晴らしい体験だった」と感動を語っていたが、目は活字を追っても内容はまったく頭に入ってこない。

紫帆と会うのは一三年ぶりだった。昨日、いきなり携帯に電話がかかってきた。

「あの、わたしなんだけど」といわれた瞬間、紫帆だとわかった。高校の同窓生に訊いてまわって電話番号を調べたのだという。

「迷惑かもしれないけど、相談に乗ってもらえないかな」紫帆はちょっと笑った。「わたし、なんだか困ったことになっちゃって」

紫帆の近況は噂で聞いていた。どこかの金持ちと結婚して、“セレブ”になって麻布界隈に住んでいるという話だった。

その夫がシンガポールで急死したのだと紫帆はいった。もっとも、それだけではなぜ自分に電話をかけてきたのか皆目見当もつかなかった。

牧島の右隣では、子どもを英語塾に送り届けた母親たちが外国人教師の品定めをしていた。左のテーブルでケーキを食べている二人連れの女性は、先ほどからずっと、犬の断種手術をいつ行なうべきか議論していた。

がんによって自己啓発するという本にもういちど目をやったとき、ドアが開いて紫帆が入ってきた。その一瞬で、あたりの空気が変わるのがわかった。

三十代になっても、紫帆は相変わらず美しかった。唇は厚く、両目の大きさが微妙にちがっていて、顔の造作が整っているとはいえないが、ひとを惹きつける生気に溢れていた。身長は一七〇センチちかくあり、ハイヒールを履くといやでも目立った。

「牧島くん、ぜんぜん変わらないね」豪華な毛皮のコートを空いた椅子に無造作にかけると、遅れたことを詫びるでもなく紫帆はいった。

ウェーブのかかったゆたかな髪が白く細いうなじを流れている。耳にはダイヤモンドのピアス。光沢のある黒の丸首のセーターに大粒の真珠のネックレスが映え、宝石をちりばめた工芸品のような時計をしている。一目で、牧島とは別の世界に暮らしていることがわかった。

メニューも見ずにダージリンのミルクティーを注文すると、頬杖をついて牧島の顔を真っ直ぐに見た。「それでも、ちょっと大人っぽくなったかな」稀少な生き物を観察するかのように、紫帆はいった。爪は光沢のあるサーモンピンクのマニキュアできれいに塗られ、左手の薬指にダイヤモンドの指輪をしている。

◇  ◇  ◇

連載はこちら↓
タックスヘイヴン

画像3

紙書籍はこちらから

電子書籍はこちらから