見出し画像

反田恭平 『終止符のない人生』 -序章 冠を獲りに行く-

ショパン国際ピアノコンクール。 

19世紀前半に生きた伝説の至宝フレデリック・ショパンの名前を冠したこのコンクールは、5年に一度しか開かれない。オリンピックよりも稀にしか訪れないこのコンクールのチャンスは、新型コロナウイルス感染症の影響によって1年延期された。

「ひょっとすると、コロナのせいでコンクールが突然中止されるのではないか」

不安が頭をもたげる中、DVD審査、予備予選、1次予選、2次予選、3次予選、と階段を一段ずつ上るように勝ち抜いた。

2021年10月18日、ショパンコンクールのファイナル(本選)を迎えた。53カ国から502人のピアニストがエントリーした中、ファイナルに進んだのはわずか12人。幼いころから死ぬほどあこがれてきたステージに、僕はたしかに立っていた。

1次予選が始まってからファイナルまでの日程は、3週間弱の間に矢継ぎ早に組まれる。2021年10月4日に1次予選に出場し、10月10日には2次予選に出場した。10月4日に3次予選があり、ファイナルは10月18日という強行スケジュールだった。10月17日はショパンの命日だから、この日は完全オフになり、皆が喪に服す。

ファイナル前日の10月17日、4年前の記憶をしみじみ思い出した。ワルシャワ音楽院(フレデリック・ショパン音楽アカデミー)でピオトル・パレチニ先生のレッスンを初めて受けた日は、偶然か運命か、ちょうど4年前の2017年10月17日。しかもこのとき先生の前で披露した曲は、ファイナルで弾いたショパンのピアノ協奏曲第1番だった。

レッスンが終わると、先生は「今日はショパンの命日だから、夜は教会に行くね」と言う。10月17日がポーランド人と音楽家にとってどれほど重要な日なのか、当時の僕は明確に意識していなかった。「そうか。今日がショパンの命日なのか」 。その瞬間から「10月17日」という日付は僕にとって特別なものとなった。

ショパンコンクールに応募したときの僕のエントリーナンバーは、64番だ。
「51年前、僕がショパンコンクールで3位に入賞したときもエントリーナンバーが64番だったんだよ。何か不思議な縁を感じるね」

偶然の一致としては出来すぎではないかとさえ思った。ピオトル・パレチニ先生は、笑いながら僕をコンクールのファイナルに送り出してくださった。コンクールの会場にいる先生に、僕が奏でるショパンのピアノ協奏曲第1番を聴いていただきたい。一心不乱でピアノを弾いた。

僕はピアニストでありながら、指揮者を志している。ショパンコンクールのファイナルでは、弦楽器、金管楽器、木管楽器、打楽器の奏者が一堂に会する。ショパンが書き記したスコア(総譜)の全パートが、ファイナルのステージではワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団によって演奏される。

どのパートの演奏者が、どういうタイミングで音を飛ばしてくるのか。本番の途中、演奏者の誰か一人がミスやアクシデントを引き起こす可能性もある。何があろうが、本番中にカバーできる絶対的な自信があった。虫眼鏡で観察するようにスコアを徹底的に読みこみ、本番中の一音一音を一つも聴き漏らさないまで集中をしていた。

「ああ、自分はなんと幸せ者なのか。ショパンに出会えたおかげで、僕の人生はこんなにも豊かになった。ピアノをやっていて本当に良かった」

ステージでピアノを弾きながら、全身の細胞が歓びに打ち震えた。僕の夢のような40分間が終わった。

音楽と初めて出会ってから20年以上が経過した今、人生で最も満足のいく演奏ができている。1分1秒の瞬間瞬間に、永遠が凝縮されているかのような濃密な時間だった。尊敬するショパンが書き遺してくれた譜面に没入し、今僕はショパンと同じ時間を生きショパンと融け合っている。

恍惚と陶酔の輝きに身を浸し、全身全霊でピアノ協奏曲第1番を弾き切った。

僕が追い求めていたショパンが、今ステージ上に姿を現した。あの瞬間、僕は饒舌が過ぎるほどにショパンと対話していたのかもしれない。

◇  ◇  ◇

画像1

紙書籍はこちらから

電子書籍はこちらから


スクリーンショット 2022-07-21 12.21.46

書籍特設サイトはこちらから

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!