見出し画像

人生に意味なんかない…橘玲さんが描く驚愕の金融情報小説! #3 永遠の旅行者

元弁護士・真鍋に、見知らぬ老人麻生から手紙が届く。「二十億の資産を息子ではなく孫に相続させたい。ただし一円も納税せずに」。重態の麻生は余命わずか、息子悠介は百五十億の負債で失踪中、十六歳の孫まゆは朽ちた家に引きこもり、不審人物が跋扈する。そのとき、かつてシベリア抑留者だった麻生に殺人疑惑が浮上した……。

今、巷で話題沸騰の『バカと無知』やベストセラー『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』などで知られる橘玲さん。『永遠の旅行者』は、そんな橘さんによる驚愕の金融情報小説。姉妹作品『マネーロンダリング』『タックスヘイヴン』とあわせて、お楽しみください!

*  *  *

5


ビーチの駐車場でブルーのポロシャツと綿のスラックスに着替え、コナ国際空港には十一時前に着いた。ジャガーを駐車場に入れ、日本人団体客に交じってチェックインの列に並ぶ。島間航路であれば、以前は三十分前に空港に着けばよかった。同時多発テロ後は手荷物検査が厳しくなり、一時間は見ておかなくてはいけない。とはいえ、アラブのテロリストがこんな田舎までやってくるはずもなく、検査官もどこかのんびりしている。

空港の売店で一日遅れのニューヨーク・タイムズを買う。ハワイにはアメリカじゅうから観光客がやってくるため、どの店も地元紙のほかに西海岸や東海岸の新聞を置いている。偶然の出会いから高級車を乗り回すようになったのも、この新聞がきっかけだった。
 
高級リゾートが点在するサウス・コハラの一角に隠れ家のようなビーチがある。ビッグアイランドのビーチはすべて公共だが、そこはホテルの敷地を通らなければ辿り着けず、一般の観光客は入ってこない。美しい白砂の浜辺はホテルによって管理されており、色とりどりのパラソルで飾られたビーチチェアが並んでいる。ハイシーズンでもビーチにはホテルの宿泊客しかおらず、オフシーズンはほぼ貸切りになる。
 
ビッグアイランドにはじめて滞在したとき、この秘密のビーチを偶然見つけ、毎日のように通った。そんなある日、ビーチチェアに凭れてニューヨーク・タイムズを読んでいると、「君、ニューヨークから来たのかい?」と声をかけてきた男がいた。それがビルとの出会いだ。
 
ひと目でユダヤ系とわかる縮れた黒い髪と高すぎる鼻を持つウィリアム(ビル)ケリーはニューヨークの弁護士で、ハーバードのロースクールを卒業し、アメリカのビッグファイブに名を連ねる超一流法律事務所に勤務し、三十代半ばにして一生遊んで暮らせるだけの金を貯めたが、その金をどう使えばいいかわからなくなっていた。
 
「日本から来た旅行者だよ」とこたえると、ビルは隣に腰掛けて新聞を覗き込んだ。ビーチにはほかに数組の家族連れがいるだけだったから、ただ話し相手がほしかったのだろう。
 
「なんで日本人の君が、悪徳の支配する汚らわしい街の話に興味を持つんだい?」修辞の多いもってまわった言い方が、いかにも東部のエリートらしい。
 
そのとき読んでいたのは、不動産開発業者に騙されるかわいそうなニューヨーカーの話だった。
 
アメリカでも、自分の家を持つことは庶民の最大の夢だ。とりわけ不自由な借家暮らしを強いられてきた大都市のマイノリティ層に、マイホームへの憧れが強い。それを利用してマンハッタンのはるか西、フィラデルフィアとの州境ちかくに住宅地を開発し、ニューヨークで働く黒人やヒスパニックの中流層に売りさばいた開発業者がいた。ニューヨークの住宅コストは世界一高く、郊外であったとしても、五〇万ドルは出さなければまともな家は手に入らない。その夢がわずか一五万ドルで叶うと大々的に宣伝したのだ。
 
なぜいつまでも賃貸? 家を買って失うものは大家だけです。
 
これが業者の殺し文句だった――。が、失ったのは大家だけではなかった。ニューヨーク・タイムズによれば、住民の多くが職と、家庭と、さらには肝心のマイホームすら失っていた。
 
開発業者は、「近い将来ニューヨークとフィラデルフィアを結ぶ高速鉄道が開通しマンハッタンまでわずか一時間半で通勤できる」と宣伝したが、いつまで経っても事業着工の気配はなく、住民たちは渋滞するハイウェイを片道三時間ちかくかけてニューヨークまで通勤する羽目になった。そんな生活が長続きするわけもなく、一家の稼ぎ手はふたたびマンハッタンでアパート暮らしをはじめ、家庭は崩壊した。住宅ローンを払えず、不動産を差し押さえられ、競売にかけられるケースも続出している。そのうえ夢にまで見たマイホームは欠陥住宅で、床は傾き、柱は歪み、トイレの水は逆流した。いまや住民たちは疲れ果て、コミュニティは解体しかけている、そんな話だった。
 
「なるほど、そいつは興味深い」ビルは言った。「すごいビジネスチャンスじゃないか」
 
ビルの仕事は、こうしたトラブルに介入し、金のある人間から賠償金を絞り上げ、その半分を手数料として徴収したあと、残りを哀れな被害者に分配することだ。
 
外国人相手の気安さからだろう、ビルは自分の人生がいかに虚しいかを率直に話した。知り合って一ヶ月の恋人を連れてビッグアイランドの別荘にやってきたビルは、着いた翌日に大喧嘩をし、それから一人でホテル暮らしをしていたのだ。
 
「俺はときどき、相手が恋人なのか、法廷で叩きのめす下種野郎なのかわからなくなるんだ。相手のちょっとした欠点を見つけると、そいつを抉り出し、陪審員の前にさらけ出したいっていう衝動を抑えられない。精神分析医にどエラい金を払ってるんだが、最近ますます頭の調子がおかしくなってきた。なあ、どうすればいいと思う?」
 
もちろん、ビルはこたえを求めているわけではなかった。お抱えの精神科医の代わりに愚痴を聞いてくれる人間がいれば、相手は誰でもかまわなかったのだ。
 
ビルはずっと、金さえあればすべての望みが叶うと信じていた。だが二〇〇一年九月十一日のワールド・トレード・センター崩壊を目の前で見てから人生観が変わった。どんなに金があっても、死んでしまえばなんの意味もないという当たり前の事実に気づいたのだ。世の中に金で買えないものがあるということは、ビルにとって深刻なアイデンティティの危機だった。

ひとしきりわが身の不幸をしゃべり散らしたあとでビルが訊いた。
 
「ところで君、なにしてるの?」
 
「海の見える場所を旅してるんだよ」
 
「それになんの意味があるんだい?」
 
「なにもないよ」
 
「どういうこと?」
 
「人生に意味があるとかないとか、そんなのうんざりだよ」
 
「なんてことだ!」ビルは叫んだ。「君は俺の人生の師匠だよ!」
 
それから三日間、ビルの泊まっているホテルのバーで朝から酔いつぶれた。ニューヨークに戻る日、ビルが車のキーを取り出して言った。
 
「俺のメンターが、あんな安くてボロくて醜い車に乗っているなんて耐えられない。頼むから俺の車を使ってくれ」
 
それが、ジャガーのオープンカーだった。
 
自由に使える車が手に入ったので、ハワイ州の運転免許を取得することにした。
 
アメリカは国民総背番号制の国で、日本の年金番号にあたるSSN(Social Security Number)と呼ばれる社会保障番号がなければ運転免許証も銀行口座も持てない。
 
かつては旅行者でもSSNを簡単に入手できたが、同時多発テロ以降、外国人への発行は厳しく制限されるようになり、現在ではアメリカ国内で常勤の職を得ていることが条件となっている。これでは駐在員の家族や留学生ですら運転免許を取得できず、不自由な国際免許証を使うしかない。
 
そこでハワイ州政府は、日系議員や日本企業などからの要請を受け、州内に住所があればSSNがなくても免許を取得できるよう州法を改正した。日本人をはじめとする外国人の長期滞在者が州経済に大きく貢献しているからで、このような特例を認めているのは、全米のなかでもハワイだけだ。
 
この法改正を聞いて、コーヒー農園を経営するジャンに住所を貸してもらい、運転免許の試験を受けにいった。本人確認はパスポートだけなので、私書箱でさえなければ、他人の住所でもまったくわからない。
 
ハワイのホテルやゴルフ場は、地元の住人向けに、カマアイナ・レートと呼ばれる割引料金を提供している。アメリカには住民登録の制度がないので、ハワイ州の免許証さえあれば外国人でもカマアイナとなり、高級ホテルに半額で宿泊することができる。これも、わざわざ免許を取得した理由のひとつだ。
 
搭乗開始のアナウンスが流れ、搭乗口の前に列ができはじめた。滑走路に小型のジェット機が停まっている。自分の背丈よりも大きなクジラのぬいぐるみを抱えた子どもが、母親に駆け寄っていく。その隣では気の弱そうな父親が、両手に山のような荷物を持ち、セロテープで貼りつけたような笑顔を浮かべている。
 
新聞を畳み、小脇に抱えてかるく伸びをする。滑走路の脇に植えられた背の高い椰子の樹が、風に揺れていた。

6


飛行機は珍しく定刻に出発し、ホノルル空港に着いたのは十二時三十分過ぎだった。荷物を待つ乗客を横目で見ながら、メインターミナルへ向かう。日本からの便が到着したばかりなのだろう、団体用の出入口が日本人客でごった返している。ツアーバスが停まり、ガイドが大声で点呼をとっている。何人かが通路の端で隠れるように煙草を吸っていた。アメリカ本土からの観光客が、その傍らを眉を顰めて通り過ぎる。
 
メインターミナルの二階にザ・バスと呼ばれる市営バスの停留所がある。ハワイ諸島のなかで州都ホノルルのあるオアフ島だけは、全島をバス交通網がカバーしている。ホノルル空港からワイキキまでタクシーを利用すれば三〇ドルちかくかかるが、市バスならたったの二ドルだ。もっとも、市バスにはスーツケースなど大きな荷物を持ち込めないので、一般の旅行者は利用できない。
 
オアフ島の大動脈はハイウェイ1号線で、ホノルルとパールハーバーを結んでいる。ホノルル空港はほぼその中間にあり、平日の朝はダウンタウンに向かう渋滞に巻き込まれ、ふだんならわずか二十分の距離に一時間以上かかることも珍しくない。それを避けるため、ホノルルに出かけるときは必ず昼の便を利用していた。

◇  ◇  ◇

連載はこちら↓
永遠の旅行者


紙書籍はこちらから

電子書籍はこちらから


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!