某_記事アイコン

某|春眠 3|川上弘美

 結局ぼくが野田春眠だったのは、高校二年生の終わり、もっと正確に言うなら、高校二年生の三月十五日までだった。それまでの話を、かいつまんでしてみようか。

 まず、秋の終わりに停学になったぼくは、ふたたび高校に通いはじめてからすぐに、堀内と三枝から呼び出しをくらった。場所は、体育館の裏だった。よくよく体育館の裏の好きなやつらだと感心しながら出むいてゆくと、二人は並んでぼくを待ちかまえていた。

「どういうつもりなの」

 堀内がまず口火をきった。

「適当なことばっかりしてないで、ちゃんと決めて」

 と言ったのは、三枝。

 決めて、というのは、おそらく、どちらがよりぼくにとって欲望をそそる相手なのだか決定し、告げてほしい、ということだと解釈したぼくは、

「どっちも、とっても好きなんだよ」

 と、おとなしく答えた。

 とたんに、堀内がぼくの頰をたたいた。

「暴力は、だめなんじゃない?」

 と、さらにおとなしく言ったのだが、今度は三枝がぼくを蹴った。

「ようするに、どっちも好きじゃないってことだよね」

「予想はしてたけど、やっぱり、ね」

 堀内と三枝は、うなずきながら言いあった。

 ぼくをめぐってついこの前大立ち回りを演じていたはずなのに、どうやらいつの間にか共闘していたらしい。

「もう二度と、あたしたちにかかわらないで」

「顔、見たくないし」

 と、冷たいこと、このうえない。

「好きなんだけどなあ」

 もう一度言うと、二人はひややかにぼくをねめつけた。

 言われたとおり、二度と彼女たちにはかかわらなかったし、ぼくの顔を見ないですむように、極力それからはこそこそ過ごすようになった。黒田と長良頼子だけは、前と変わらずぼくに対していたが、黒田のおかげで知りあえたクラスのほかのやつらとは、なんとなく疎遠になった。

 学校の女子とはつきあえなくなったので、バイト先の副店長とふたたび関係をつくろうとしてみた。けれど、こちらも、はなはだしく冷淡だった。

「野田くんって、なんか、女のこと、ばかにしてるんだよね」

 などと言う。

「ばかになんか、してないことは、あなたが知っているでしょう」

 じっと副店長の顔を見ながら言ったが、副店長はすぐに顔をそむけてしまった。

「そういう顔をすれば、女はみんな自分の言うことを聞くと思ってることは、知ってるよ」

 そういう顔、が、どんな顔なのだかぼくにはわからなかったし、ぼくの表情ひとつで言うことを聞いてくれる女がいるなどという甘いことを思ったことなど一度もなかったので、ぼくは首を力なく振った。けれど副店長は、三往復めの首振りのあたりで、さっさとどこかへ行ってしまった。

 それ以後、副店長はぼくを無視するようになった。仕事はとてもやりにくくなり、引きとめられもしなかったので、その店のバイトはやめた。女性たちとつきあわなくなったので、金もさほど必要ではなくなったところだったし。

 年が暮れるころには、ぼくとセックスをしてくれる女性は、一人もいなくなっていた。


 正月は、静かだった。家に帰ることのできる入院患者たちは病院から姿を消し、スタッフの数も少なかった。退屈だったので、ぼくは日記をだらだらと書いた。暮れから、水沢看護師と蔵利彦の姿も見ていなかった。ほとんど一日じゅう誰とも喋らない日が、三日ほど続いていた。

 こういう時、ぼくは退屈をまぎらわせるものをほとんど持っていない。病室には、ゲームもパソコンも本も何もなかったし、趣味というもののない野田春眠は、女性とつきあう時以外には消費活動をほとんどおこなっていなかったので、雑多なものも部屋にはなかった。きれいに整理された清潔な空気が部屋を満たしていた。ベッドにうつぶせになって、野田春眠は日記を書きつづけた。

 突然、水沢看護師が入ってきた。

「しばらくぶり」

 水沢看護師は、無表情に言った。

「何か用ですか」

「日記を読んでおくようにって、蔵先生が」

 書きかけの日記をぼくは差し出した。水沢看護師は、ぱらぱらとめくってゆく。それから、ごく最近の記述のところで、めくる手を止めた。斜め読みではなく、きちんと読みはじめる。

「これ、今日書いたんだよね?」

 そう言って、水沢看護師は開いた日記の中の一行を指でたどってみせた。


セックスがしたい、という欲望は、いったいどこから湧いてくるのだろうか

 という文章だった。

「はい。実際のところ、ぼくの性欲ってどこから湧いてくるのか、知りたいと思ったんです」

 ぼくが言うと、水沢看護師はしばらく考えていた。それから、

「たぶん、精巣」

 と、つぶやいた。

「そういう答えではなく、もっと文学的な感じの」

 水沢看護師を、ぼくは軽くにらんだ。

「野田春眠って、文学的なことを考えるようなタイプだっけ」

 というのが、水沢看護師のそっけない答えだった。

「不遇は、若人を文学的にするんですよ」

「不遇って、どんな不遇」

「性欲がまったく満たされないという不遇」

「同情に値しない不遇ね」

「ですかね?」

 水沢看護師にとりつくしまがないので、それ以上「不遇」について述べることはしなかったけれど、自分の性欲がどこから湧いてくるのか、ぼくは真実、知りたかったのだ。なぜなら、丹羽ハルカから野田春眠に変化したとたんに、性欲は突然、ふんだんに惜しみなく湧いてきはじめたのだから。

 野田春眠は、性欲に支配されている。考えるほぼすべてのことが、性欲に結びついているこの感じは、研究に価するのではないかと、正月の静かな病院で、ぼくはつらつらと考えたりしたのだが。


「もし性欲について研究したいのなら、ほかの年代の男性になってみたら」

 というのが、蔵利彦の意見だった。

 それはちがう、ほかの男性になってしまったなら、野田春眠の性欲については、もうわからなくなってしまう。ぼくは、今のぼくのことを、ぼく自身として、知りたいのだ。ほかの誰かになって、「なるほど、あの時野田春眠は、あのようなしくみで動いていたのだな」などと、もっともらしく分析したいのではないのだ。

「野田春眠って、同じ年ごろの男子にくらべて、性欲が強いほうなんでしょうかね」

 ぼくは、蔵利彦に聞いてみた。

「うん、ことに、このごろの男の子たちって、昔の思春期の子たちよりも、ずっと落ち着いてる感じがするしね」

「落ち着いている」

「そう。性欲だけじゃなく、ほかにもいろいろすることや関心事があるみたいだし、そもそも性欲って、せきとめられるとあふれようとするけど、今の子たちは、あんまり性欲をせきとめられてないんじゃないのかな」

「なんですか、その、せきとめる、って」

 横から水沢看護師が口をだした。

「整然とした豊かな情報が流通しているせいで、想像が行き止まることがなくて、欲望もさらさら流れていっちゃう、んじゃないかって感じることがある」

「は?」

 水沢看護師は、肩をすくめた。ぼくにも、蔵利彦の言うことは、よくわからなかった。

「整然とした情報って、何ですか」

 聞いてみた。

「うーん、なんかさ、昔、って言っても、三十年くらいしか前じゃないんだけど、ぼくらが若かったころって、空気の中に、なんだか猥雑な成分が含まれてた感じがするんだ」

「猥雑な成分」

「そう、成分。それはたとえば、セクハラがセクハラっていう名前をまだはっきりと冠されていなかったがゆえに、セクハラっていう行為がセクハラという言葉のもとに統合されていなかった、だから、セクハラ的な行為が輪郭をもたずに、常にどこかから空気の中へと溶け出していた、とか、手軽に手に入る性的な刺激をもたらす情報は、ほぼ印刷物かフィルムの中だけにしかなくて、時間や空間を限られた中でそれらの情報を得なければならなかったがゆえに、刺激の結果あらわれる性的興奮が、その時間なり空間なりの中で濃縮されて、それらがまた常にどこかから空気の中へと溶け出していった、その結果存在した、猥雑な成分のことを言ってるつもりなんだが」

「長いですよ、先生」

 水沢看護師が、冷たく言い放った。

 蔵利彦はつまり、なんだかもやもやした、性的興奮を刺激するようなものが、まるでラーメン屋からチャーシューを煮る匂いがもれただよってくるように、昔はどこかからただよってきていたのだ、ということを言っているらしかったが、それならば、そのような猥雑な何かはもうただよってこないらしい現代のこの都市生活なのに、なぜぼくの性欲は強く保たれているのだろう。

 ぼくが記憶を持たない、ついこの前までは「この世に存在していなかった者」だったからだろうか。

「性欲が強いって、きみにとって、いいことなの、悪いことなの」

 水沢看護師が聞いた。

「べつに、いいことでも悪いことでも、ありませんから」

「あ、そ」

 性欲は、人間の欲の中で、ごく基本的な欲だ。生物として、ぼくは凡庸なはずだ。では、都市生活をおこなう現代の人間としては?

 三学期、ぼくは教室の中で少し孤独だった。教室の空気の中に、蔵利彦の言っていた「猥雑な成分」があるのかどうか、毎日ぼくは感じようとしてみた。

 あるようにも思えたし、ほとんどないようにも思えた。

 バイトを再開し、ためた金で風俗の店にも行ってみたが、そこで得られる性欲の解放感は、必死に女たちに取り入って個人的につきあってセックスをして得られる性欲の解放とは、だいぶん違っていた。

つきあった女とするセックスの方が面白いのは、なぜだろう

 という、ぼくの日記の中の言葉を、水沢看護師はまたぼくの目の前で、指でたどってみせた。

「なぜだと、きみは思うの?」

「うーん、よくわからないです。恋ごころとか、少しは、あるのかな」

「あるの?」

「ないような気がします」

「堀内や三枝のこと、少しは好きだった?」

「好きだけど、黒田や長良頼子に対するよりも、好きの度合いは、少なかったような」

「じゃ、ユナや長良さんとくらべたら?」

「でも、ユナや長良さんに対する気持ちは、ぼくが丹羽ハルカだったころの、丹羽ハルカの気持ちでしょ。野田春眠の気持ちじゃないよ」

「あら、丹羽ハルカと野田春眠は、まったくつながってないの?」

 なるほど。丹羽ハルカの記憶はぼくにはしっかりとあるのだから、つながっているのかもしれない。

「ぼくって、いったい何?」

 そうつぶやいていると、蔵利彦が病室に入ってきた。

 昔、そういうような題名の小説があったよ。蔵利彦は、言った。その小説の中で、「ぼく」は、いったい何だったんですか。聞くと、蔵利彦は、残念、読んでいないから知らない、と答えた。

 三学期が終わろうというころ、ぼくは次の人間になることを勧められ、断りたくもあったけれど、これ以上野田春眠でいることの意味も見つけることができず、曖昧な気持ちのまま、うなずいたのだった。

*   *   *

(続きは、『某』本編にてお楽しみください)

画像1

紙書籍のご購入はこちらから
電子書籍のご購入はこちらから

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!