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「働かざるもの食うべからず」の嘘 #1 仕事なんか生きがいにするな

「ハングリー・モチベーション」の終焉

何らかのハングリーな状況に直面すると、人はどうしても、まずはその解決を図ろうとし、それさえ解決すれば幸せになるのではないかと考えてしまうものです。しかし実際のところは、問題が解決されても喜ぶのはほんのつかの間で、すぐさま別の不足が気になってきて、気付けばまたもやハングリーな状態に陥ってしまいます。

このように、初めは幸せになるための手段だったはずのものが、いつの間にか自己目的化して、出口のない欲望の悪循環が生じてしまいます。経済的安定を求めたり、利便性の向上を目指したりしたことも、このような自己目的化のループによって肥大化した結果、今日のような経済至上主義と情報過多の時代が招来されたのだと言えるでしょう。

ところで、人類がハングリー・モードで駆け抜けてきたこれまでの時代を「ハングリー・モチベーションの時代」と名付けるとすれば、「実存的な問い」が近年増えてきているのは、この「ハングリー・モチベーションの時代」が、静かに終焉に向かいつつある兆候なのではないかと考えられるのです。

ハングリー・モチベーションで動いていた人間は、極端な言い方をすれば、「虫」などと同じ行動原理で動いていたようなものだと言えるでしょう。つまり、空腹だからと食糧を求めて動き、危険だからと安全なところに逃げ込む、といったことです。もちろん、これは生き物全般の根本をなす行動原理なので、それが間違っているというわけではありません。

しかしながら、絶対的な欠乏から解放されたはずの現代人が、なおもハングリー・モードの悪循環に陥り、貪欲に富や成功を追い求め、情報収集に取り憑かれている今日の姿は、俯瞰的に見れば、きっと滑稽な姿であるに違いありません。

しかし、ここにきて若者を中心に「実存的な問い」を抱えたクライアントが増えてきているという現象は、いつの間にか物質的・経済的な満足がある種の飽和点に達してしまい、それはもはや私たちに「生きる意味」を与えることができなくなってきたことを示しているのではないかと考えられるのです。

ところで、かつて実際にハングリーだった時代に人々は、果たして皆一様に「ハングリー・モチベーション」に突き動かされていたのでしょうか。そんな中で「実存的な問い」に苦悩した人はいなかったのでしょうか。

もちろん、日々の糧を得ることに躍起にならざるを得なかった状況下では、多くの人にとって「実存的な問い」など、かなり縁遠いものであったに違いありません。しかしそんな中でも、今日と同様、実存的な苦悩と向き合っていた人も確かに存在していました。それは、困窮した状況から免れていた一部の恵まれた人々のみならず、たとえ生活は困窮していても、果敢に「実存的な問い」と向き合っていた人もいたのです。


生きる意味を問う夏目漱石の「高等遊民」

例えば、かの夏目漱石もその代表的な人物の一人ですが、彼の小説には、漱石自身の実存的な苦悩を体現したような人物がしばしば登場します。

そのような人々は、当時、総称的に「高等遊民」と呼ばれましたが、これは、日露戦争の前あたりから使われ出した言い方で、旧制中学卒業以上の高等教育を受けながらも一定の職に就いていない人を指す言葉でした。彼らは国家の将来を担うべきエリートとして高等教育を施されたにもかかわらず、卒業しても就職口が飽和していて、なかなか定職に就くことができませんでした。これは当時、深刻な社会問題となっていました。

彼らは、高度な学問を修めたことによって、旧来のムラ的共同体の封建的価値観から脱却し、「近代的自我」に目覚めた人々でした。彼らが実存的な苦悩を抱くようになったのも、この「近代的自我」が導いた必然だったと言えるでしょう。ただし、彼らが「近代的自我」に目覚め、知的に高い存在であったがゆえに、体制側から厄介な存在と見なされてもいたようです。

つまり、職に就けない「遊民」である不満が元になり、いつなんどき体制に対して反逆を企てないとも限らない存在として、国家側からは恐れられ、危険視されていた面もあったのです。

そうは言っても、この「高等遊民」の問題は、当時の国民全体から見れば、一部の限られた人たちに生じた、あくまで限定的な問題に過ぎなかったと言えるでしょう。しかし現代においては、多くの人が高等教育を経ているにもかかわらず、就労環境はニート、フリーター、ワーキングプアなどの言葉が次々に生み出されるほど、過酷な状況になっています。

つまり、現代の「高等遊民」問題は、もはや昔のように限定的なものに留まってはおらず、社会全体にあまねく認められるほど全般的な問題になってきているのです。

毎年、東日本大震災による死者数をはるかに超える自殺者が出続けているという問題や、どこの職場でも激増しているいわゆる「新型うつ病」の問題を考える際、どうしても、経済や雇用の問題などの社会的な不安要素が原因だとする議論が行われることが多いと思われます。

しかし、このような考え方は、あくまで「ハングリー・モチベーション」の価値観を前提にした考え方の域を出ておらず、問題の一面しか捉えることができていません。そこでは「ハングリー・モチベーション」以降の問題、つまり「近代的自我」に目覚めた人間が抱く「実存的な悩み」という重要な側面が、完全に見落とされているのではないかと思われるのです。

「ハングリー・モチベーション」で進むことだけでは済まなくなった現代、つまりこの「人間ならではのモチベーションが求められる時代」に、私たちはいったいどのような価値観を持って、何を指針に生きていくことができるのか。この新しく根源的な問題に、現代の「高等遊民」こそは真っ先に直面している存在なのではないかと考えられるのです。

しかし、「生きる意味」を問うことなんて無駄なことだ、といったシニカルな言説がまことしやかにあちこちで流布されていて、「実存的な苦悩」を抱いている人たちは、ますます困惑させられています。このような言説は、かつて一度は「生きる意味」を問うてはみたけれども、結局それをつかみとることができなかった挫折者によって発せられたものとみてまず間違いないでしょう。「実存的な問い」に挫折した彼らのルサンチマン(妬嫉)は、問うこと自体を「無駄なこと」と切り捨ててしまいたがるのです。

しかし、諦めない限りにおいて、「実存的な問い」には必ずや出口があるものなので、このようなニヒリスティック(虚無的)な言説に惑わされてはならないと思います。

幸い私は臨床を通じて、「実存的な苦悩」から抜け出て「生きる意味」をつかむことに成功したクライアントの清々しい姿を、数多く目撃してきました。それは、人間が真に人間らしい在り方に生まれ直すとても感動的な瞬間であり、私はこれを「第二の誕生」と呼んでいます。

社会的成功や世間的常識などにとらわれず、俯瞰的にこの世の趨勢や人々の在りようを眺めることができた時、人には必ずや「実存的な問い」が立ち現れてくるものです。この問いに苦悩することは、他の生き物にはない「人間ならでは」の行為であり、そこにこそ、人間らしい精神の働きが現れているのだと言えるでしょう。

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『仕事なんか生きがいにするな』泉谷 閑示

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