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マネーロンダリングの驚きの実態…橘玲さん渾身の国際金融情報ミステリー! #4 タックスヘイヴン

シンガポールのスイス系プライベートバンクから1000億円が消えた。ファンドマネージャーは転落死、バンカーは失踪。マネーロンダリング、ODAマネー、原発輸出計画、北朝鮮の核開発、仕手株集団、暗躍する政治家とヤクザ。名門銀行が絶対に知られてはならない秘密とは……。

ベストセラー『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』などで知られる橘玲さん。『タックスヘイヴン』は、そんな橘さんによる国際金融情報ミステリー小説です。姉妹作品である『マネーロンダリング』『永遠の旅行者(上巻)』『永遠の旅行者(下巻)』とあわせて、お楽しみください!

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男の家から車で五分ほどで、入り江を利用した小さな港に着いた。船着場はほとんど使われていないらしく、小型の船が一隻つながれているだけだ。

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軽トラックを駐車スペースに駐め、ヘッドライトを消す。月のない夜で、あたりは深い闇に包まれ、岩場に打ちつける波の音しか聞こえない。古波蔵がダッシュボードから懐中電灯を取り出して車を降りると、堀山は荷台の上で両頬を思い切り叩いていた。

「凍え死ぬかと思いましたわ」ぎこちない動きで荷台から降り、小刻みにジャンプする。「おかげで酔いもすっかり覚めましたわ」

男は荷台からスーツケースを引っ張り出し、軽々と肩に担いだ。懐中電灯を持った古波蔵が先導し、釣竿とクーラーボックスを抱えた堀山がそのうしろを小走りでついていく。

船は五トンほどの遊漁船で、狭い船室にはビニール製の座布団が乱雑に積まれ、棚の上に古いテレビとビデオデッキがあった。スーツケースを船室の端に置くと、漁師は甲板に戻ってもやい綱を解き、操舵室に上がった。

機関室が真下にあるため、エンジンをかけると振動が直に床下から伝わってくる。堀山はダウンジャケットのポケットから携帯用カイロの束を取り出し、何枚かを古波蔵に投げてよこした。

「ここ、暖房入っとるんかいな。寒くてたまりまへんな。使ってください」次々と袋を破ると、ダウンジャケットのジッパーを開けて身体のあちこちに貼りつけ、スーツケースを横に倒してその上に腰掛けた。

船はゆっくりと後退し、反転して外洋へと向かった。入り江を出ると冬の海は荒く、船は上下左右に激しく揺れた。五分もしないうちに堀山は船室を飛び出し、デッキの手すりから身を乗り出して胃のなかのものを戻した。

吐くものがなくなると青い顔をして戻ってきて、そのままスーツケースの隣にへたり込む。

古波蔵は備えつけのクーラーボックスからペットボトルの水を取り出し、堀山に渡した。「これを飲んで寝てろよ」

「古波蔵はんはなんともないんでっか?」弱々しい声で堀山が訊いた。

「慣れてるからな」自分のペットボトルのキャップを開けると、水を口に含んだ。「船に乗る前に飲み食いしないのが秘訣なんだ」

「そりゃ殺生でっせ」堀山が呻いた。

対馬の北端から韓国の釜山までは五〇キロほどしかない。高速フェリーなら一時間一〇分の距離で、時速一〇ノットの釣り船でも三時間弱で着く。

午前二時過ぎ、船は韓国との国境近くで停まった。暗闇から、サーチライトを照らしながら別の船が近づいてくる。ひとまわり大きな漁船で、韓国旗を掲げている。

こちらからもサーチライトで合図すると、韓国船がゆっくりと横づけしてきた。

床に寝転んで荒い息を吐いている堀山を置いて、古波蔵は船室を出た。

韓国船では、船員たちがブリッジを下ろす準備をしている。漁師が操舵室から下りてきて、ブリッジを引き込んで素早くデッキに固定した。屈強な体軀の若い船員が二人、韓国船から乗り移ってきた。

「スーツケースを運ばせるから、先に向こうの船に行ってくれ」古波蔵は、青白い顔で船室から出てきた堀山に声をかけた。

堀山は一瞬、躊躇し、「それはあきまへんで」といった。「ワシはいつでもあんたといっしょや」

古波蔵は肩をすくめると、手早く救命胴衣をつけ、コートの内ポケットから封筒を取り出して漁師に差し出した。漁師はなにもいわずに封筒を受け取り、乱暴に尻のポケットに突っ込んだ。

韓国人の船員がスーツケースを抱えてデッキに戻ってきた。古波蔵はブリッジに足をかけ、バランスをとりながら一気に渡った。そのあとを、手すりにしがみつき、四つんばいになって堀山がついてくる。

転げ落ちるようにして韓国船のデッキに下りると、堀山はぜいぜいと息をつきながら古波蔵のうしろに立った。向こうの船には、韓国人の船員二人とスーツケースが残されている。

古波蔵は、脇腹のあたりに硬いものが当たるのを感じた。

「このまま船が別々になれば、カネはおしまいや」堀山はいった。「そのときはあんたを殺して、ワシはこの冷たい海に飛び込むことに決めとりまんねん」

堀山の言葉を無視して、古波蔵は大きく手を振った。韓国人の船員がスーツケースの取っ手とキャスターを持って、ブリッジを駆け上がってくる。

二人は堀山の足元にスーツケースを置くと、手際よくブリッジを片づけて、操舵室に向けて手を振った。エンジンがかかり、船がゆっくりと動き出す。

古波蔵は船員に命じて、スーツケースを船室に運ばせた。船室は二〇畳ほどの広さで、テーブルとソファのほかに冷蔵庫が備えつけられ、暖房が強すぎるほど利いていた。

「あの船に比べたらこっちは天国でんな」堀山はダウンジャケットを脱ぎ捨てると、ソファにどかりと腰を下ろした。

古波蔵は、堀山の前に立った。

「その物騒なものといっしょなら、ここから先はお断りだ。違法に入国したうえにそんなものが見つかったら、どうなると思ってるんだ」エンジン音が激しくなったので、耳元に口を寄せた。「それに、好きなときにあんたを海に突き落とせた」

堀山は素直に、ライフベストの内ポケットから鈍色をした小型拳銃を取り出した。

「借金のかたにヤクザから分捕ったもんを持ってきましたんや。なにがあるかわからんよってな」

それから、銃身を持って古波蔵に差し出した。

「好きにしたらええがな。どうせ弾は入っとらんし」

古波蔵は拳銃を受け取ると、そのまま船室を出て、海に向かって投げ捨てた。それから両手で風を遮って煙草に火をつけ、手すりにもたれ、星明かりを映す夜の海を眺めた。

「疑ごうたりしてすんまへんでした」堀山が出てきて隣に立った。

「べつにかまわないさ」煙を吐き出すと、古波蔵はいった。「俺だってあんたを信用してないからな」

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午前五時前に、船は海雲台の東にある小さな港に着岸した。操舵室から下りてきた船長に札束の入った封筒を渡し、スーツケースを駐車場まで引きずっていく。

駐車場の端に白いバンが駐まっていて、運転席で若い男が眠っていた。古波蔵が窓ガラスを叩くと慌てて車から飛び出して、「オハヨゴザイマス」と片言の日本語で挨拶した。

車のトランクにスーツケースを積み込んで、堀山と後部座席に乗り込む。運転手は黙って車を出し、釜山港にかかるダイヤモンドブリッジを渡って市街へと向かった。早朝の道はすいており、一〇分足らずで目的地に着いた。

ビルの裏手の駐車場に車を駐めると、運転手は隣のコンビニを指差して飯を食べる仕草をし、車のエンジンをかけたまま自分はビルの裏口に入っていった。あたりにひとの姿はなく、カラスがゴミ箱をつついているだけだ。

古波蔵は財布から韓国ウォン札を何枚か取り出し、コンビニでペットボトルの水と缶コーヒー、菓子パンをいくつか買った。

車から降りてきた堀山は、「まだ船酔いが続いとってなんも食えまへんわ」といってペットボトルを受け取ると、水を口に含んで何度もうがいをし、次いで片手で水を受けて顔を洗った。手ぬぐいで顔を拭くと、「ようやくすこしすっきりしましたわ」と車に乗り込み、レジ袋から砂糖をまぶしたクロワッサンを取り出してかぶりついた。

「ところで、あの船乗りたちにいくら渡しましたんや」パンを頬張りながら、堀山が訊いた。「ワシのカネなんやから、教えてもろてもええ思うねんけど」

「日本側も韓国側も相場は往復で一〇〇万。行きに半金渡して、残りは帰りに払う約束だ」甘ったるい缶コーヒーを飲みながら、古波蔵はこたえた。

「そうでっか。あんがい安いんでんな」

「円安で燃料費が上がって、漁をしたってほとんど儲けなんかない。それに比べたら楽な商売だ」缶コーヒーをドリンクホルダーに置くと、煙草に火をつけた。「それに覚醒剤とちがって、現金を運んだくらいじゃたいした罪にならないしな」

日本から韓国に現金を密輸するルートは、フィクサーの崔民秀が一〇年ほど前につくったものだ。

一九九七年のアジア通貨危機でウォンが暴落し、韓国経済は大打撃を受け、IMF(国際通貨基金)から融資を受ける代償として債務超過に陥った金融機関の多くが外資に買収されていった。その機に乗じて在日韓国・朝鮮人の企業家がこぞって韓国の金融業に進出したが、こうした銀行の大口顧客には在日同胞も多く、投資と脱税を目的に日本国内の現金を韓国に持ち込んだ。最初はスーツケースに現金を詰め込んでフェリーで運んでいたが、マネーロンダリングへの規制が厳しくなるとこうした稚拙な方法は使えなくなり、漁船による密輸が始まったのだ。

運び屋を探すのは簡単で、闇金の客のリストから利用できそうな奴に声をかけるだけだ。対馬の漁師は、パチンコと競艇で闇金から三〇〇万円ほど借りていた。その借金がチャラになるばかりか割のいい仕事まで紹介されるのだから、ふたつ返事で飛びつくのも当然だ。

万が一警察や国税にあやしまれたとしても、漁師が知っているのはレンタカーのナンバーだけだ。レンタカーは福岡でヤクザの下っ端が借りて、フェリーターミナルの駐車場に、キーをガムテープでバンパーの下に貼りつけて駐めておく。ナンバープレートを控えられても、誰がなにに使ったのかはわからない。

日本の政財界と裏社会を結びつける「最後のフィクサー」と呼ばれた崔民秀は、バブル最盛期に大手生命保険会社から多額の資金を引き出し、日韓フェリーの就航や映画制作などさまざまな事業を展開したが、九〇年代半ばに詐欺罪で逮捕・収監され、釈放後はいっさい表に出ることなく、柳のような情報屋を使って裏社会のビジネスを手掛けていた。マネーロンダリングもそのひとつで、海上で荷物を受け渡すのは覚醒剤などの密輸と同じだが、崔は現金以外いっさい扱わせなかった。

いまもむかしも、現金こそがもっとも匿名性の高い決済手段だ。マネーロンダリングへの監視が厳しくなればなるほどその価値は上がり、堀山のように、どれだけコストがかかっても手持ちの現金を海外に運びたいというカモが増えてくる。柳が古波蔵に接触してきたのは四年ほど前で、それ以来古波蔵はこのルートを使っていた。プライベートジェットやクルーザーを使った大掛かりな現金移送は税務当局が監視しており、こちらの方がずっと安全なのだ。

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