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実はシベリアで生きていた? 西郷隆盛の死の真相 #5 晩節の研究 偉人・賢人の「その後」

親鸞、徳川家康、平賀源内、小林一茶、西郷隆盛……。日本の歴史に燦然と輝く偉人たちですが、実は「意外すぎる晩年」を送っていたことをご存じでしょうか? 河合敦さんの『晩節の研究 偉人・賢人の「その後」』は、彼らの「その後の人生」にスポットを当てたユニークな一冊。教科書には載っていない面白エピソードがたっぷり詰まった本書から、とくにユニークな晩年を生きた偉人たちをご紹介しましょう。

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「西郷生存説」は真実か?

明治十年(一八七七)九月二十四日未明、新政府軍は国家に叛旗をひるがえした西郷ら賊軍の残党が籠もる城山を完全に包囲し、一斉に攻撃をはじめた。これを知るや、拠点にしていた洞窟前に集まった西郷ら四十余名は、最後の進軍をはじめた。

が、やがて西郷は腹部と股に銃弾を受け、それ以上、歩けなくなった。そこで近くにいた別府晋介に向かって「もうここらでよかろう」と介錯を頼み、命を絶ったのである。

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その首級は、従僕の吉左衛門が持ち去って密かに隠した。敵に奪われる恥辱を防ぐためである。ただ、隠したり埋めたりした場所については、諸説あって特定することができない

探索の結果、西郷の胴体はその身体的特徴からすぐに見つかり、やがて隠された首も無事に発見され、政府軍の参軍(指揮官)であった山県有朋や川村純義が本人と確認した。

だから西郷隆盛は、確かに死んだのである。

なのにそれから十四年後、「西郷はじつは生きている」という噂が、日本中に広がりはじめる

そのきっかけとなったのは、明治二十四年三月に『鹿児島新聞』に送りつけられた匿名の投書だった。それによれば、西郷は城山で死なずに諸将と包囲網を脱して串木野(嶋平浦)へ遁れ、ここから舟で甑嶋へ渡り、同島の桑浦からロシアの軍艦に乗り込み、ウラジオストックで上陸し、シベリアのロシア軍基地に入った。しかも、いまも生きていてロシア軍の訓練にあたっているというのだ。

薩摩出身の黒田清隆も欧州漫遊中にこの噂を聞きつけ、わざわざその基地を訪れたところ、確かに西郷がいた。そこで久しぶりに対面を果たし、日本の将来について大いに謀議をめぐらした。そしてその年(明治二十四年)、いよいよ日本で議会が開設された。

そこで西郷らは黒田との約束に従って、日本を改革すべくロシア政府に帰国を申し入れた。ロシアはその事情を察し、皇太子ニコライが日本へ漫遊するという名目で西郷らを護送することになっているという内容だった。

「ただの噂」が悲劇を招く

こうした西郷生存伝説は、とんでもない事態を引き起こしたのである。

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五月六日に鹿児島に入ったニコライは、九日に神戸へ入港、京都を見学してから十一日に琵琶湖を遊覧、再び京都へ戻ろうとした。ところがその途中の大津で、警備の津田三蔵巡査に切りつけられ、負傷したのである。

明治政府にとって、天地がひっくり返るほどの出来事だった。伊藤博文は塔ノ沢温泉での夕食中にこの報に接し、そのまま箸を投げ捨て人力車で東京へ戻った。明治天皇や松方正義首相らはすぐに京都のニコライのもとに駆けつけた。多くの国民も電報や手紙で陳謝の言葉をかけ、見舞いの品々をニコライのもとへ届けた。各寺社では快癒祈願がなされた。

常軌を逸した過剰反応だが、それは当然だった。

この大津事件は、ロシアにとって絶好の宣戦の口実になるからだ。当時の日本人は、近い将来、強大なロシア軍が日本に攻めてきて植民地にしようとしていると信じて疑わなかった。だから日本の外交も、ロシアの南下を阻止することを基本方針として動いていた。

幸い、日本政府の対応と国民の誠意にロシア政府とニコライは満足の意を表し、国民が最も心配した事態は起こらなかった。ただ、責任をとって青木周蔵外相は辞任した。

それにしてもなぜ、警察官の津田はニコライを襲撃したのだろうか。

表向きは、日本に不利な樺太・千島交換条約に不満を持ち、また、ニコライが侵略の下見に来たのだと思い、犯行におよんだと述べているが、それは真の理由ではないとする説が強い。津田は「西郷がニコライと帰国して政権を握ったら、自分が西南戦争の戦功で与えられた勲章が剥奪されてしまう」と信じて事を起こしたというのだ。

じつは新聞各紙では、そうした噂がたびたび報道され、さらに四月七日付の『朝野新聞』は、西郷生存説を聞いた明治天皇が「隆盛、帰らば、それ、かの十年の役に従事せし将校等の勲章を剥がんものや」と戯れたと報じた。

これが津田の凶行を誘発したというのだ。

結局、西郷は姿を現さなかった

さて、この時期にどうして生存伝説が浮上したのだろう。これはあくまで推測だが、ロシアの侵略におびえているところに、ロシア皇太子がやって来るというので、人びとの不安が膨張した。しかも、ちょうどこの頃、西郷軍に身を投じて消息不明だった熊本の緒方夫門が、飄然と故郷に戻ってきた。

けれど彼は、いままでどこで何をしていたかを語らなかった。ならば、西郷も生きているのではないか、へたをすればロシアにいて、ニコライの来日とともに帰国するのではないか、そんなふうに考えられるようになっていったのではないだろうか。

また、国内においても初めて帝国議会が開かれており、民党が過半数を握って藩閥政府を激しく攻撃、政府は予算で妥協を強いられた。もし西郷が戻ってきてくれたら、藩閥政府を倒せるかもしれない、そんな淡い期待も伝説を助長した一因かもしれない。

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晩節の研究 偉人・賢人の「その後」 河合敦

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