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#4 それでも変態にはなりたくない…「負け組」の日常を描いた群像劇

AV・風俗専門のスカウトマン、「ノー」を言えないカラオケボックス店員、デブ専アダルト女優……。大都会・東京を舞台に「負け組」たち6人の日常をリレー形式で活写する、直木賞作家・奥田英朗さんの『ララピポ』。「下流文学」の白眉として評判となり、映画化もされました。第1話の主人公は、対人恐怖症のフリーライター。その冒頭をお楽しみください。

*   *   *

上の階の男は栗野健治という名前だった。郵便物の宛名を見て知った。どこかのクレジット会社からの利用明細だった。

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栗野は毎晩のように女を連れ込んでいたが、休む日もあった。

夜、スカイラインのエンジン音が聞こえ、ドアが閉まるときの音が一回だけだと博は大きく落胆した。

そしてやはり連れ込む女は複数だった。

確認しただけで四人いた。朝出てくるところを駅まで先回りし、彼女たちの顔を間近に見たのだ。もちろん帰るなりマスターベーションをした。

博はそれぞれに名前をつけた。令奈、ルナ、樹理、秋菜。すべて似ているAV女優の名前からとった。いずれも平均以上で、街を歩けばナンパされそうな若い女ばかりだった。

博は秋菜がお気に入りだった。あのときの控えめな声が、懸命にエクスタシーをこらえているようで余計に淫靡なのだ。おのずと自慰行為にかける意気込みもちがった。

嫌いなのはルナだ。ギャーギャーうるさくて情緒に欠ける。顔も淫乱そうだった。

栗野が何者かはわからない。どうせ軽薄なホストか何かだろう。博にはどうでもいいことだった。

不安定な椅子に乗ってのマスターベーションは危険が伴うのでテーブルを寝室へ移動した。ベッドからテレビが見られなくなったが我慢することにした。

精液が飛び散るのはコンドームを装着することで解決した。感触は鈍るけれど部屋が精液臭くなるよりはましだと思った。

けれど十日もすると肩、首、腰が痛くなった。

やはり無理な姿勢なのだ。すぐにセックスを始めてくれればいいものの、ときには一時間ぐらいおしゃべりしていることもあった。博はその間ずっとテーブルの上に中腰でいるのだ。

博は今、「コンクリート・マイク」を買うべきかどうかについて迷っている。

エッチな男性向け雑誌には必ずといっていいほど広告が出ているので、その存在は知っていた。マイクを聴診器のように壁に当て、スイッチを入れるとイヤホンを通じて壁の向こうの音がクリアに聞こえるという盗聴装置である。

躊躇する理由は二つあった。

ひとつは高価なことだ。いちばん安い機種でも二万円ほどした。貯金を崩して生きている身としてはいかにもきつい。

もうひとつは自意識が邪魔した。そこまですると変態の領域に足を踏み入れてしまうのではないか。そんな恐れが博にはあったのだ。

女たちが駅の改札を抜けていくとき、何度か尾行してみたいという誘惑に駆られた。けれどそのつど博は我慢した。これでも理性は持ち合わせているのだと自分を踏みとどまらせた。これがオタクなら迷わず実行に移すのだろう。欲望に忠実な彼らが羨ましいものだ。

ただ、どんなものか見てみるのもいいかな、とだけは思った。

どうせ時間は腐るほどあるのだ。それに繁華街も歩いてみたい。電車賃がもったいないという理由で、ここ数カ月は歩いて行ける範囲にしか出かけていない。

博は広告の地図を頼りに秋葉原へ行ってみた。念のために三万円ほど銀行でお金を下ろし持参した。

電車に乗ると着飾った若い女がたくさんいることに少し驚いた。地元にいると見かけるのは中高年の女ばかりだ。若い女たちの胸や尻にどうしても目がいってしまった。

こいつらも、栗野のような軽薄な男に抱かれているのだろうか。

吊り革につかまりながら一人ムラムラとした。今夜は秋菜が来てくれないかと思った。

くだんの店はガード下の薄暗い商店街にあった。各店は三坪ほどの小ささで、測定器やコードなど色とりどりのパーツが所狭しと陳列してある。

店の看板を見つけ、その前に立った。通りに面した陳列ケースには、各種盗聴器が並べられていた。広告に出ていたコンクリート・マイクもあった。どれも結構な値段だ。

奥をのぞくと分厚い眼鏡をかけた色白の若い男が一人で店番をしている。どうせおまえも盗聴マニアなんだろう。博は蔑んだ目でちらりと見やった。

「そこにあるの、安くなりますよ」眼鏡が声をかけてきた。

「ふうん、そうなの」

「何をお探しですか」

「あ、いや、たまたま通りかかっただけなんだけどね」悠然と答えたつもりだったが顔が熱くなった。

しばらくこちらを見てから眼鏡が雑誌に目を落とす。このサエない男ならいいか。博はなぜかそんなことを思った。

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「ちなみに、このコンクリート・マイクっていくらになるわけ」

今度は博から話しかけた。二万五千円の値札がついたものだ。

眼鏡がカウンターから出てきて博の横に立った。自分より十センチ以上背の低い小男だった。哀れみを覚える。

「一万八千円までなら」

「ふうん」

無関心を装うものの心がはやった。これを手に入れたら、上の部屋の声はもっと鮮明に聞こえる。しかもコップに耳をつけるという無理な体勢でなく。

「ちょっと見てみますか」男がショーケースの鍵を開けて商品を取りだした。「この部分がマイクで、これをコンクリートに当てると壁の向こうの音が聞こえてくるわけですね」

「へー、面白そうだね」

「電池は単三が二本で三十時間ぐらいはもちます」

「ふうん」

「もっと高性能の機種もありますが、一般のマンションの壁だとこれで充分だと思います」

「へー、そうなんだ」

「ボリューム調整すればたいていの壁には対応できます。保証期間は一年です」

眼鏡は商品説明をするとコンクリート・マイクをしまいかけた。

「じゃあ、それ、もらおうかな」

博は思わず言っていた。これを逃すと手に入れる機会はないと思ったのだ。

「ありがとうございます」眼鏡が無表情のまま頭を下げる。

「まあ、ものは試しっていうから……。ぼく、マスコミ関係の仕事をしてるからいろんな製品に詳しくないといけないしね。あはは」

言い訳しつつ汗をかいていた。一刻も早く支払いを済ませてこの場を離れたくなった。

眼鏡は商品を箱に詰めながら、「お客さん、どの雑誌の広告を見たんですか」と聞いてきた。博は思わずエッチ系の雑誌の名前を告げてしまった。

この男は、最初から博を通りがかりの客だとは思っていなかったのだ。

猛然と腹が立った。このチビが、と罵りたくなった。店をあとにしながら二度と来るものかと思った。

しかし足取りが軽いのも事実だった。

コンクリート・マイクを手に入れたのだ。

これで今夜から無理な姿勢を強いられることなく、思う存分盗み聞きができる。

消費税込みで二万近い散財は痛かったが、浮きたつ気持ちの方が大きかった。

博は帰るなり、まずは隣の部屋でコンクリート・マイクをテストしてみた。隣には年金生活者と思われる暗い老女が住んでいる。

電池をセットし聴診器のように壁に当てると、イヤホンを通じて確かにテレビの音がくっきりと聞こえた。再放送のドラマを見ているのだとすぐにわかった。老女の咳払いまで聞こえる。

ただし少しでもマイクをずらすと不快なノイズが耳をつんざいた。長時間使うなら固定した方がよさそうだった。さらに商品名が示す通り、コンクリートの部分がより安定して音を拾うこともわかった。

このアパートは欠陥住宅らしく角の梁にしかコンクリートを使っていない。壁も天井もおそらくは空洞なのだ。

博は天上隅の梁の部分にマイクをガムテープで固定した。これで両手が自由になる。

そしてもっといいことを思いついた。延長コードを使えば、ベッドに寝ながらにして聞くことができるのだ。

すぐさま電器店に走った。ミニプラグの延長コードはなかなかなく、三軒歩きまわってやっと手に入れた。

準備は万端だ。栗野君、女を連れて帰ってきてくれよな。博は見知らぬ住人に君づけで祈っている。

午前零時を回ったころ栗野の車は帰ってきた。博の心臓が高鳴る。テレビを消した。

ドアが閉まる音が二回。

ありがとう栗野君――。感謝の気持ちで一杯だった。

玄関へと急ぐ。今夜は誰だ。令奈か、ルナか、秋菜か。

レンズをのぞくと、やがて前を通り過ぎたのは新顔の女だった。それもこれまでとは明らかにタイプがちがう清楚なお嬢様風だ。階段を上がりながら、黒髪が上品に揺れている。

どうしてだ。栗野みたいな馬鹿で軽い男に、女はどうして簡単にやられてしまうのか。

あわててベッドに身を横たえ、イヤホンを耳に装着した。マイクのスイッチを入れる。

足音がドンドンと鼓膜を震わせる。やはり床の音をいちばん拾ってしまうようだ。

(お邪魔します)

そのとき女の声がはっきりとイヤホンから聞こえた。博は興奮に震えた。

(はい……いただきます)

何か食べ物を勧めているようだ。どうせ女の歓心を買うために甘いものでも買い置いているのだろう。馬鹿男め。でも興奮はいっそう高まった。

男の声は聞き取るのがむずかしかった。たぶん周波数の低い音は拾いにくいのだろう。女も小声になると何を言っているのかわからなかった。

上の部屋では三十分ほどおしゃべりが続いていた。博はすでにパンツを下ろし準備をしている。寝たままで自慰行為ができるのがしあわせだった。


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