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#1 深海には美しい雪が降るんだ…深海を舞台にした冒険小説!

幼い頃に別れた父の言葉に導かれ、潜水調査船のパイロットを目指す深雪。ところが閉所恐怖症になり、叶いかけた夢は遠のいてしまう。失意に沈む深雪の前に現れたのは、謎の深海生物〈白い糸〉を追う男・高峰だった。反発しあう二人だが、運命はいつしか彼らを大冒険へといざない……。『海に降る』は、壮大かつ爽快な長編冒険小説。その冒頭を少しだけご紹介します。こんなご時世だからこそ、広い世界へ想像を羽ばたかせてみませんか?

*   *   *

プロローグ

地球上には、宇宙よりも遠く、手の届かない場所がある。

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深海だ。

幼い私の目を覗きこむようにして、父は言った。

海と聞いて深雪はどんな世界を想像するかい。きっとこうじゃないかな。魚たちが弾丸のようにすばやく泳ぎ回り、イルカが水しぶきをあげて跳ね、クジラが勢いよく潮を吹き、漁船が網をひくとたくさんの魚がかかる。絵本や図鑑でよく見る、生き物のたくさんいる世界。しかしそれはほんの上澄みで、広い海のたった五パーセントでしかないんだよ。残りの九十五パーセントは深海と呼ばれるくらやみの世界なんだ。

そこが、どんなところで、どんな生き物がいるのか、二十世紀が終わろうとしている今も、ほとんどわかっていない。

「……なぜだと思う」

パジャマ姿でベッドに腰かけていた私は首を振った。

深海では人間は一秒も生きていられない、と父は言った。防護服を着たってだめだ。ものすごい水圧であっという間に押しつぶされてしまう。

じゃあ、どうやって行ったらいいの、と私は隣に座る父の無精髭が生えた顎を見あげた。

「それを考えるのが、お父さんたちの仕事なんだ」

父はポケットから、潜水船のミニチュア模型を取りだした。

白くなめらかな外皮。機械の腕が二本前へ伸びている。丸みを帯びたボディは後ろへいくとともにすぼまっていて、背鰭のような黄色い尾翼がにょっきり生えていた。船というより魚のようだ。尻尾にあたる部分にはプロペラの羽根がつけられていて、今にもふわりと飛びあがり、部屋の中を泳ぎ回りそうな気さえした。

身を乗りだし、夢中で見つめる私のてのひらに、父はそれを載せて言った。

「外からは見えないけれど、船の中には丸い球が入っている。造船所の熟練技術者たちが、海洋科学技術の粋をこらして製造したチタン合金製の耐圧殻だ。限りなく真球に近いから、全方位から襲いかかる大水圧にも負けない。この耐圧殻が、中に乗っているパイロットや研究者を護り、深度六五〇〇メートルの世界まで連れていってくれる」

父の話は専門用語ばかりで、九歳の私には難しかった。でも、一言も聞き漏らすまいと耳を傾けた。仕事が忙しくて滅多に家にいない父を独り占めできるのが嬉しかったのだ。

「深雪がこの船に乗ったとしよう」

父は立ちあがり、私の手から船を取って天井の白熱灯に近づけた。

「耐圧殻の窓から見えるのは青い海だ。魚の群れが、太陽の光をビカビカとはねかえしながら、滑るように泳いでいくのが見えるだろう。海の中を、下へ、下へと降りていくと、太陽の光は遠くなっていく」

そう言って父は電灯のつまみを回した。部屋は薄明かりの世界になった。

「目を閉じて想像してごらん。深雪は耐圧殻の小さな丸い窓を覗く。すると雪が降っているのが見える」

「雪? 海の中なのに?」

私は上下のまぶたを懸命にくっつけながら質問した。

「浅海から落ちてきた生き物たちの真っ白な死骸さ。雪みたいに海の底に降りつもるんだよ。ネオンのように光るプランクトンも見える。耐圧殻の中はどんどん寒くなって痺れてくる。さあ、目を開けてごらん」

言われた通り、目を開けると、照明が完全に消されていて、部屋は真っ暗になっていた。不安になって手を伸ばしたが、父は離れたところにいるのか指の先には何も当たらなかった。

とうとう海底にたどりついた、と父が低い声で囁く。

君は、人類がまだ見たことのない極限の世界にいる。

そこはとても静かだ。砂ばかりが続いている。かと思えば、地球の裏側まで行けるのではないかと思うほど深い海溝が口をあけていたり、何百度もの熱水を噴きあげる大きな岩の塔がそびえていたりする。

見たこともない生き物たちが君を覗きにやってきたりもする。

私が体を震わせると、父は大声で笑った。温かく大きな手が私の肩を包んだ。

大丈夫、お父さんたちが造った耐圧殻の中にいさえすれば、何も心配することはないよ。そう言って私をベッドに横たわらせ、寝かしつけてくれた。晩酌の後の父からはかすかにお酒の匂いがした。

いつか私も深海に行けるかな。

そうつぶやくと、行けるとも、という言葉とともに温かい手が額に置かれた。

お父さんはもっとすごい船を造る。その船に乗れば、世界で一番深い海にだって行けるだろう。

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深度〇メートル

忘れ物がないかどうかよく確かめて、事務所を出た私は、天井の高い整備場を通って岸壁に向かった。

ひとつに結んだ髪のまわりや、作業着の袖口を、潮の香りがする風が吹き抜けていく。いよいよだ。朝ご飯をよく食べられなかったせいか、お腹の底から喉へとボコボコとこみあげてくる泡のような空気を飲みこみながら、岸壁に横づけされた支援母船〈よこすか〉の白い腹にむかって歩きだす。

大きな船体そのものは揺れては見えないけれど、車輪をつけたタラップがゆらゆらしていて、穏やかな波の力を岸壁につたえているのがわかった。

岸壁ではちょうど〈しんかい六五〇〇〉がAフレームクレーンに吊りあげられ、〈よこすか〉の船尾に積みこまれているところだった。

最大潜航深度六五〇〇メートル。世界一の潜航能力を誇る有人――つまり人が乗ることのできる深海潜水調査船。建造されてから二十余年、世界中の海で世紀の発見をいくつもなしとげてきたその白いボディは、パイロットたちによって磨きこまれて新品みたいにきらきら輝いている。

幼い頃、父がてのひらに載せてくれた模型そのままの美しい姿をあおぎながら私は足を速めた。父が開発に携わったあの潜水船に、明日乗れる。

手すりを摑んで〈よこすか〉のタラップをのぼりかけた時、

「深雪、ごめん、ちょっといい?」

出港を見送るために岸壁に出ている陸上勤務の職員をかきわけて、広報課の正田眞美が手帳を持って出てきた。キャリアスーツの上に、ダウンジャケットを羽織っている。

「この訓練潜航が終わったら、あなた〈しんかい六五〇〇〉のパイロットになれるのよね?」

「コパイロットね。副がつくほう」

「とにかく女性では初めてでしょ。帰ってきたら〈しんかい六五〇〇〉関連のイベントに出てほしいんだ。しばらく休日は予定入れないでよね」

「いいけど、多岐司令に許可とらないと」

「もうとった。じゃあオーケーってことで。公式イベントだからスーツ着てきて。いや、作業着のほうが雰囲気出るかな? うちのホームページ用の写真も撮るから、この前みたいにすっぴんみたいな顔で来ないでよ」

うちというのは、ここ、独立行政法人海洋研究開発機構のことだ。

その名の通り、海を研究するための国内随一の機関。といっても研究対象はもっと広く、海の底のさらに下、つまり地球の内部構造や、海を含む地球全体の気候変動など広い範囲に及ぶ。

常に五百人もの研究者がいて、机にかじりついて論文を書いたり顕微鏡を覗きこんだり大掛かりな機器で実験したりしている。そしてときどき探査のために〈しんかい六五〇〇〉に乗って深海に潜る。

本部はここ、横須賀市夏島町にある。

海に面した広い敷地には、研究者や職員のいる棟の他に、海洋工学実験場や潜水プール、科学技術館などがある。東西に長く延びた専用岸壁には、たまに〈よこすか〉や〈なつしま〉などの研究船が停泊していて、深海を実地調査する機会を勝ち取った研究者たちを、乗せたり降ろしたりしている。

ただし今回は研究者は乗らない。冬の間に整備した〈しんかい六五〇〇〉が正常に動くかどうかの試験をしたり、私たち新人のための実海域訓練がおこなわれるのだ。

今回の訓練には特別に多岐司令が同乗してくれるらしい。司令に直接指導してもらえる機会なんてそうないんだからしくじるんじゃねえぞ、と潜航長の神尾さんにはしつこく言われた。でも大丈夫。訓練潜航はもう五回目だ。だいぶ機器の扱いにも慣れてきた。

今回の潜航が終わればコパイロット昇格は確実。本番の調査潜航にも乗せてもらえるようになる。

幼い頃からずっと追い続けてきた夢があと少しでかなう。

「じゃあ、頼んだよ」

眞美は念押しするように言うと、広報課のオフィスがある棟へ戻っていく。ピンヒールでよくあんなに走れる。踵が七センチの場合、爪先にどのくらい圧がかかるものなんだろうと考えながら眺めていると、眞美はくるりとふりかえった。

「あ、忘れてた。守衛さんから伝言頼まれてたの。正門に来客だって」

「来客って、今?」

あと数十分したら〈よこすか〉で出港しなきゃいけないのに。

対応すべきか迷いながら正門を見ると、守衛さんがこっちに向かって手を振るのが見えた。私の名を呼んでいるみたいだ。口が大きく動いている。

「このくらいの男の子だったよ。小学三年生くらいかなあ」

眞美が自分の胸のあたりに手を持ってきて言った。

「親戚の子か何かじゃない? 神尾さんには私から言っといてあげる。早く行っておいで」

指図するように言うと踵を返し、走っていく。

祖父母は他界しているし、二年前に亡くなった母には兄弟姉妹がいない。父方の親戚とはとうに縁が切れている。私を訪ねてくる親戚など思い当たらなかった。しかも子供だなんて。

私はとりあえず、守衛室のある正門に走った。

「出港前でよかった。ひとりで来たって言うんだもの、どうしようかと思ったよ」

私の顔を見て、守衛さんは安心したように言った。

「ほら、君、お姉さんが来たよ」

呼ばれて、岸壁のはずれに立ち、海を眺めていた少年がふりかえった。色が白かった。紺色の制服の半ズボンからひょろりとした足が伸びている。眞美の言う通り、小学三年生くらいだと思うが、それにしては黒い革のランドセルが真新しかった。


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