糸 4┃林 民夫
後藤弓 平成二十一年 東京
わたしたちは時代が平成に変わる頃生まれました。
会場では赤ん坊の時からのスナップビデオが映されていた。
ウエディングドレスを着た後藤弓は、参列者と共に、映像を見つめていた。
出会いは十二歳の時でした。
まだ今ほど人気がなかった旭山動物園に行った時の写真だった。恥ずかしい。こんなことはやめてほしかった。なぜ美容室の先輩や同僚に、田舎者の中学生が精一杯おしゃれしました、というような自分の写真をさらさなければならないのか。
弓は、隣で満足そうな顔をしている竹原直樹を睨んだ。
そもそもいつ竹原と付き合いだしたのかも定かではない。出会った時から長文メールがうざかったのを覚えている。旭山動物園だって、明日、暇? というメールに、暇、と答えてしまって、結局二人で行くことになっただけで、後悔したぐらいだった。付き合ってるつもりなど微塵もなかった。でも気づくと、最初に出会って以来、八年間、この男はいつも弓の側にいた。なぜだかわからないけど、側にいた。
なるようにしかならない。
それは母の口癖だった。母も美容師だった。富良野の観光ホテルで働く父との三人家族。幼い頃は、どこにでもあるごく普通の家族だと疑いもしなかった。どうやら両親の仲はあまりよくないようだと察知したのは、高校生になってからだった。
子供の前では喧嘩をしないように努めていたのだろう。夫婦円満に見えていたのだ。でも思えば、どこかに行く時、いつも三人一緒ではなかった。今回は母と一緒。次は父と一緒。母が美容師として働き、父の仕事の都合で日曜日は休めないからだと疑念を抱かなかった。
弓が高校生になる頃、お互いの不満が隠せないほど噴出したのだろう。弓の前でも喧嘩をするようになった。原因はわからない。見栄っ張りで、花火大会の時、子供に浴衣を着せることを喜びとする母と、家でも、洗ったグラスの位置にこだわる神経質な父とは、結局相性が悪かったのだろう。弓が旭川の美容師専門学校に通っている頃、二人は離婚した。
その時も母は、笑って言っていた。なるようにしかならない。
弓は母をたくましく感じた。手に職を持っている者の余裕を見て取った。なにがあっても一人で生きていけるのだから。絶好のタイミングで、東京の美容室に勤め始めた高校時代の先輩が、弓を誘ってくれた。北海道にこだわりはないし、帰るべき家もなくなった。東京もいいかもしれない。上京した。
それを勘違いしたのが、この男だ。
竹原は、家族を喪失した弓が、自暴自棄になり、東京に出て行ったという物語を勝手にこしらえ、今、おまえの側には俺がいないと駄目だと追ってきたのだ。あんたには連絡しなかっただけだよ。付き合っていたわけじゃないんだから。喉元まで出かけた。
竹原の実家はアスパラやミニトマトを作っている農園で、三人兄弟の三男だった。大金持ちではないが、貧しくもなく、北海道の大地で、家族の愛情を一身に受けて育った竹原には、離婚というものが、人生最大のピンチに見えたようだ。
竹原は、家出同然で東京にやってきた。弓のために家族も北海道も捨てたのだ。頼んでもいないのに。弓のマンションに転がり込んだ。東京暮らしは初めてで、家に男の人がいることに安心して隙を見せた自分がいけなかった。いつしか結婚を口に出すようになった。今の弓には家族が必要だと、竹原はいささかも疑っていなかったのだ。
悪いけど、私は、あんたみたいに、家族というものを、信用していない。
弓の言葉に、竹原は憐れむような顔を見せた。
いつだって竹原の世界では、家族は愛し合うものであり、それを信用できない弓は、残酷な世界の犠牲者なのだった。無論、本当に嫌いなら一緒に住まない。自分より他人のことを思いやる性格は見習いたい時もある。またこの男は、人の懐に入って来るのがうまい。たまに出張でいないと、部屋はひっそりとして、寂しくなってしまうのも事実だった。
一人になると自分と向き合ってしまう。弓は自分があまり好きではなかった。自分を好きな人間がいること自体、信じられなかった。なんで自分なんかを好きになれるのだろう。そんな人間を、八年間も追いかけてくれる存在自体が奇跡だった。流されよう。家族なんて信じていないけれど、すべてはなるようにしかならない。そして今日という日を迎えた。
でもね、竹原。弓は隣でタキシードを着て座っている竹原を憐れむような顔で見た。
私は、あなたが思っているような人間ではない。
友人席には園田葵がいた。
目が合った。葵は中学生の時のように、少し俯いて、微笑みを向けた。
私は葵が思っているような人間でもない。弓は静かに笑みを浮かべた。
だって私は、あの頃から、状況を誰よりも把握していたのだから。
園田葵の家はおかしかった。
弓だけではなく、近所の人もみんな間違いなく知っていたはずだ。
葵とは、美瑛の小学校の頃から一緒だった。友達はいなかった。自分の存在を消そうとしているかのように、いつも一人だった。葵の周囲だけ、別の風が吹いているような気がした。
クラスで葵の家にいちばん近いのは弓だった。たまに下校する時間が同じになった。葵は、弓の言葉に、「うん」「そうだね」と短い返答をするだけで、自分のことを決して話そうとしなかった。常に聞き役だった。ある日、一緒に下校していた時、家から男の怒鳴り声が聞こえた。平凡な日常を切り裂くような暴力的な怒声だった。誰もが、気づかないわけがない。葵は立ち止まっていた。弓は葵を見た。なにも言わないで。葵の強い意志の目が語っていた。この子はこんな目をするんだ。大人の目のようだった。葵は、ふっと静かに息をつくと、家に入っていった。まるでこれから戦場にでもおもむく兵士のような後ろ姿を、弓は見ていることしかできなかった。
母に相談すると、「なるようにしかならない」といつもの言葉をつぶやいた。母も察知していたのだろう。
近所のおばあさん、村田節子は、事態が切迫してることにいちばん憂慮していた人間だったかもしれない。葵がよくご飯を食べさせてもらっていた家のおばあさんだ。あとから聞いた話では、節子は、何度も児童相談所に連絡したが、葵の母親が、一緒に住む若い男をかばい、葵を引き離すことができなかったらしい。
美瑛の花火大会の時、葵は腕に包帯をしていた。原因は明白だった。母の見栄で、浴衣を着てきたことを後悔した。葵はいつもと同じ服だった。花火が終わっても、「まだここにいたい」と葵は動かなかった。笑顔の家族たちが見上げていた花火の余韻を楽しんでいたわけではない。家に戻ったら起こるであろう理不尽な暴力を、一分でもいいから遅らせたいだけだった。近所の大人たちも助けられなかったのだ。中学一年生の葵にとって、回避するすべはなかったはずだ。無情な世界で耐えるしかなかったのだろう。
その時、無人の自転車が頼りなくころころと転がってきたのだ。
高橋漣は、新郎友人席に座っていた。
新婦友人席に座る葵に何度も視線を向けている。気になって仕方ないのだろう。漣は、中学生の頃と変わらないように、弓には思えた。まだあの少年のような真っすぐな瞳を失っていない。
竹原と旭山動物園に行った帰り道、サッカー場の近くで漣が葵と弁当を食べている姿を見かけた。「あいつ、いつのまに」竹原が啞然としていた。
葵の笑顔を初めて見た。あんなふうに普通に笑うことができるんだ。漣という男が葵の側に来たことを理由に、弓は葵と距離を取った。もう漣がいるから大丈夫。そう思い込んだ。誰かの助けがほしい少女は、十二歳の弓にとって荷が重すぎたのだ。闇のような世界から離れたい。いつ噴出してもおかしくない問題から、弓は逃げた。葵の家族がいなくなったのはそれからすぐだった。
そのあとのことはよく知らない。
竹原が、漣と葵のその後の話をしようとしても、聞こうとしなかった。
封印しようとしていただけなのかもしれないと思い至ったのは、渋谷駅の東横線の改札口を出たところで、葵と再会した時だった。つい先日の話だ。改札を出る前から、葵がいることがわかっていたような気がした。多くの人が歩いているのに、二十歳になった園田葵だけがはっきりと見えたからだ。ここで再びめぐり逢うことがあらかじめ決まっていたようにさえ弓には感じられた。あとから付け足した記憶かもしれない。
弓は、葵に会いたかったのだ。いちばん近くにいたのに、母の言葉通り、世の中はなるようにしかならないと目を背け、絶対にいつか起こってしまうだろう問題から、耳を塞いだ中学生の頃の自分が鮮やかに蘇ったのを覚えている。自分がもし竹原のような人間なら、なにもかも捨てて、懸命に救出する努力だけはしただろう。弓はなにもしなかった。あの花火の夜だって、きれいな浴衣を着て、隣に座っていただけだった。
高校生の時、小柳翔と付き合ったのも、傷ついた人間になにかをしてあげたかったからかもしれない。彼の家庭もまた複雑だった。何番目かの母親と折り合いが悪かった。絶えずお腹をすかせていた。あそこならご飯を食べさせてくれるかもしれないと、村田節子を紹介した。彼の孤独を知った。この子を見捨ててはいけない。今思えば、葵にできなかったことの代わりだった。同情は愛情ではない。弓は小柳ともいつしか疎遠になった。
私は誰も助けることができない人間だ。弓は自覚している。そもそもたいした人間ではないが、目の前に助けるべき人間がいる時に、目をそらした記憶は、封印しなければ生きていけないほどの痛みを伴うらしい。理不尽な暴力は、当事者だけでなく、周囲の人間にもじわじわと影響を及ぼすのだ。他人を助けること以外に、世の中で大切なことはあるのだろうか? 自分のことだけを考えて生きているだけではないのか。それが自分の人生なのか。葵のことは、子供時代の一点の傷として、心の奥底に残っていたのだ。
だから結婚式に葵を呼んだのかもしれない。
竹原と結婚する。絶対葵に来てほしい。
こんなに他人になにかを求めたことは、今まで一度もなかった。
だって、世の中は、なるようにしかならないのだから。
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