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#2 淋しき男のひそかな楽しみ…「負け組」の日常を描いた群像劇

AV・風俗専門のスカウトマン、「ノー」を言えないカラオケボックス店員、デブ専アダルト女優……。大都会・東京を舞台に「負け組」たち6人の日常をリレー形式で活写する、直木賞作家・奥田英朗さんの『ララピポ』。「下流文学」の白眉として評判となり、映画化もされました。第1話の主人公は、対人恐怖症のフリーライター。その冒頭をお楽しみください。

*   *   *

体を捻り、サイドテーブルにあるティッシュ箱から二枚それを抜き取った。二つに折りたたみ、左手に持った。

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博は自慰行為に耽った。目を閉じ、想像力を総動員した。さっきかすかに聞こえた女のあえぎ声を思いだそうとした。

勢いよく精液が放出される。ティッシュがたちまちぬるく湿った。

充実したマスターベーションだった。博は久しぶりの刺激を味わったことに満足していた。アダルトビデオでは得られない心の昂ぶりだった。

ベッドから降り、パンツを上げた。大きく息をはく。

天井を見上げると、したばかりだというのにまたムラムラと欲情が込みあげた。

もう一戦始まらねえかな。そんなことを思った。

博は何年もセックスから遠ざかっていた。家に閉じこもってばかりいる男に出会いなどあるはずはなく、街に出てナンパをする気力もなかった。それにもう三十二だ。軽薄なことができる歳でもない。

リビングダイニングに戻り冷蔵庫を開けた。昼間買っておいたドーナツを取りだす。チョコとフレンチ・クルーラーを一個ずつ、ミルクコーヒーで流し込んだ。

机に戻って原稿に取りかかる。

上の部屋が気になってなかなか仕事がはかどらなかった。

翌日は昼過ぎに起きた。資料を送り返すために郵便局に寄り、その足で近所の蕎麦屋に行った。

カツ丼を注文した。ラックにあった今日が発売日の漫画週刊誌を読む。漫画すら最近は買っていなかった。単行本の類いになると図書館で借りることしか考えていない。

時間をかけてゆっくりと食べた。これから半月以上はすることがなくなるのだ。もっとも時間をうっちゃることにはすっかり慣れたのだが。

蕎麦屋の支払いを済ませると、財布の中身が二千円になった。この前お金を下ろしたのはいつだったかと頭の中で数えてみる。確か二週間ほど前のことだ。

いかん。節約が必要だ。計画では一日一千五百円で暮らすのを目標にしている。今夜は自炊しようと博は思った。

駅前の銀行で三万円を下ろした。これでこの先三週間はもたせなければならない。

そして利用明細を見ると、残高がとうとう三十万円を切っていた。

商店街を歩きながら計算してみる。

月収が十四万四千円で、源泉徴収されて約十三万円になり、そこから家賃の十万円を引くと残りは約三万円になる。光熱費が月に一万円とちょっとで、電話はほとんど使わないものの基本料金が五千円ほどかかり、あとは国民健康保険が四千いくらか自動で引き落とされる。国民年金は無視するとしても、それだけで二万円弱……。

おっと新聞代を忘れていた。一時はとるのをやめることも考えたが、さすがにそこまでしたくはなかった。朝夕の間がもたない。

要するに一万円も残らないのだ。

それで一日一千五百円で暮らすとして……いや、やはり無理だ。たばこ代もあれば諸々の雑費もかかる。シャンプーだって歯磨きだってなくなれば補充をしなくてはならない。余裕を見て一日二千円とすると月に六万円が必要で、となると蓄えは月に約五万円ずつ減っていくことになり……。

博は憂鬱になった。

あと半年で自分はアウトだ。仕事をしてもすぐに振り込まれないことを考えると、三カ月以内に何らかの行動を起こさなくてはならない。

編集部に頼めば多少の仕事はくれるだろう。けれどそれができるくらいなら最初からやっている。博は知り合いと会うのがいやなのだ。

やはり家賃十万円がネックか。吐息を漏らす。といっても費用を考えると引っ越しもできない。

血の気までひいていった。

午後は図書館で時間をつぶした。スポーツ新聞を数紙読み比べ、雑誌をぱらぱらとめくった。ついでに本も借りた。読むのは軽い短編集かエッセイばかりだ。たぶん重厚な長編小説は気力が充実しているときでないと読めないのだろう。

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夜は漫然とテレビを眺めていた。とくに目当ての番組があるわけではないので、リモコンを片手にせわしなくチャンネルを替えている。

ベッドに寝転がり、昼間借りた本も読んだ。どこかのライターが書いた外国滞在記を読んでいた。自分もこんなものを書いて暮らしていけたらいいのにな、と思う。もっとも博はハワイと香港しか行ったことがなく、おまけにパスポートは去年で期限が切れている。

博にとって夜はやたらと長い。一日はもっと長い。そのくせ一週間は三日ほどの感覚で過ぎてしまう。

午前零時を回ったころ、車のエンジン音が聞こえた。あのホスト風のスカイラインだとすぐにわかった。

なんとはなしに、耳を澄ませた。バタン、バタン。ドアを閉める音が二回した。

博は色めき立つ。また女を連れて帰ってきたのだろうか。

ベッドから跳ね起き、玄関へと走った。すぐ前が階段なので二階の住人は博の部屋の前を通らざるを得ないのである。

身を乗りだし、ドアのレンズに顔を近づける。

曇っていた。

舌打ちする。そういえば引っ越してきてから一度も拭いたことなどなかった。

おまけに廊下の蛍光灯が切れていた。家主はいったい何をしているのか。レンズには薄ぼんやりと階段が映っているだけだ。

それでも胸を高鳴らせ、二人が通るのを待った。

男女のささやくような声が聞こえた。女の「うふふ」という笑いが廊下に小さく響いていた。

黒い影が横切る。二人は階段を上がっていった。

男はノーネクタイのスーツ姿、女はミニスカートを穿いていた。すらりと伸びた二本の足が瞼に焼きつく。

はっきりとはわからないそのうしろ姿を見ただけで博は興奮した。

あの二人はこれからセックスをするのだ。

博は奥の部屋に戻ると、天井を見上げた。ドンドンという足音が鳴っている。欠陥住宅を初めてうれしく思った。

ベッドに横になり、カーテンを軽く持ちあげる。窓を五センチほど開けた。

上の部屋の明かりが、一メートルと離れていない隣のマンションの壁に反射している。

なんて好都合なのかと思った。壁に映る窓の明かりが消えたとき、上の部屋ではセックスが開始されるのだ。

テレビは消した。部屋の照明も豆電球にした。窓の隙間から、じっと壁に反射した明かりだけを凝視していた。

ティッシュを手元に引き寄せる。ズボンを下ろし、準備だけはしておいた。

なかなか電気が消えない。博は少し焦れた。早く始めろよ。心の中で急かせている。

もしかして今夜はやらないのだろうか。

いや、女をアパートに連れ込んでやらないわけがないだろう。

時間がなかなか過ぎてくれなかった。

そのとき、天井で排水管の音が低く響いていることに気づいた。

これはシャワーを使っている音だ。奴らはシャワーを浴びている。つまりこの音がやんだときが準備万端の合図であり、そののち電気が消されるはずなのだ。

手持ち無沙汰になったので寝ながらアダルトビデオ雑誌を眺めた。上の部屋にいる女はどのタイプかとあれこれ思いを巡らせた。

二十分ほどして排水管の音がやんだ。雑誌を脇にどける。窓の隙間に目をやった。ドンドンと人の歩く音。しばらくして電気が消された。

その瞬間、博の胸が高鳴る。昨日より興奮は大きかった。喉がからからに渇いていた。

全神経を耳に集中し、二階の窓から漏れる声をひとつたりとも聞き逃すまいとした。

まだ何も聞こえてこない。きっと前戯の最中なのだろう、床が軋む音がしない。

五分。十分。やっとコトコトと天井から音が聞こえてきた。

博はますます興奮した。若い男と女が、自分のすぐ上で交尾しているかと思うと湧きでる欲情を抑えることができなかった。性器はこれ以上ないというほど充血している。

右手を動かした。左手ではティッシュを構えた。

五分ほどして「あ」という女の声が聞こえた。やったと思った。

「あ……あ……」

心なしか天井の音のリズムが速くなった気がした。

「あん、あん、あん」

おお、昨日より声は大きいぞ。全身に震えが走った。一緒にイキたいと思った。

右手を懸命に動かす。歯を食いしばる。息を止めていた。

女の声が途切れた。同時に天井の音もやむ。

少しの時間差で博は放出した。

大きく息をつく。体中の力が抜けた。昨日にも増して充実したマスターベーションだった。連日なのに射精の勢いは十代のそれだった。

しばらくそのままでいた。

天井を見つめる。

いい奴が引っ越してきたな。神様に感謝したい気分になった。

早くも明日の夜が待ち遠しい。こんな高揚した気持ちはここ数年なかったものだった。


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