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どうしても生きてる|七分二十四秒めへ 3|朝井リョウ

「谷沢さん」

 すべての片付けを終え、会社を出ようとしたとき、明日美から声をかけられた。

「ありがとうございました」

 明日美はそう言うと、依里子に小さな袋を渡した。「ちょっとの間でしたけど、お礼です」取り出すと、中に入っていたのは、携帯電話のモバイルバッテリーだった。

「実は私、行きの電車、最近ずっと同じで」

 思わぬ告白に、依里子は一瞬、動揺する。

「谷沢さん、いつも、動画観てますよね」

 画面を観られていませんように。依里子は、モバイルバッテリーを握る左手に、ぐっと力が籠もったのが分かった。

「あれだけ動画観てたら、電池すぐなくなりません? これ、長持ちするんですよ」

 ぜひ、と言う明日美に、依里子は礼を返す。昼休憩の前はあしたから一人になることを不安がっていた明日美だったが、午後、何事もなく業務を片付けることができ、今は明るい表情を取り戻している。

 がんばってね。

 頭の中で、佳恵の声が鳴る。

 依里子の最終出勤日は、どの正社員の送別会とも重なっていなかった。そのことにとてもホッとしながら、全く同じ質量で、絶望もした。

 二十三時まで、駅前にある漫画喫茶で時間を潰すと、依里子はさすがにもう誰もいないだろうと思いながらも、周囲を気にしながら外に出た。

 三月の終わりだけど、まだまだ寒い。この時間まで働いていたらしい、おそらく正社員だろう人間たちが駅に向かう中、依里子はラーメンまんぷく堂を目指して歩く。

 赤信号を前に立ち止まる。ポケットから携帯電話を取り出す。充電は百パーセント。

 本当は、彼らと同じように、夜中の二時とか三時とか、それくらいの時間に来てみたかった。依里子はそう思いながら、信号の色が変わると同時に歩き出す。だけどこの店の営業が〇時までなので、仕方がない。佳恵もきっと、あのとき、今の自分と同じ気持ちだったのだろう。

 むわ、と、濃厚なとんこつの匂いが鼻腔を覆う。

 店のドアを押し、あのときは素通りした券売機の前で財布を取り出す。一応、もう一度、周りを見回す。大丈夫、知っている人なんて誰もいない。千円札を入れると、依里子は迷わず、全部乗せ、というボタンを押した。

 半券を受け取った若い店員が、一瞬その手を止めたけれど、気にしない。

 あのとき佳恵が座っていた席と同じところに腰を下ろし、横向きに倒した携帯電話をガラス窓に立てかける。充電は九十九パーセント。漫画喫茶の個室には、充電器のサービスがあった。明日美からもらったモバイルバッテリーは、使わずに済んだ。

 指紋認証を経て、画面が光る。最終出勤日、深夜のラーメン屋、両耳にイヤフォン、目の前には携帯電話。

 佳恵はあのとき、男のユーチューバー集団の動画を観ていた。

 佳恵はあのときだけでなく、一人で昼食を食べているときはいつも、何度も炎上を繰り返すことで有名な、男のユーチューバー集団の動画を観ていたのだ。

 依里子は、氷の入った水を一口含む。きん、と、内部に直接冷水を注ぎ込まれたように、歯が痛む。

 あのとき佳恵の背中越しに見えた画面の中では、若い男たちがストップウォッチを片手に大盛りのラーメンを食べていた。依里子は震える佳恵の背中と携帯電話の画面を同時に捉えながら、気配を消したままその場に立ち続けた。

 毎日正午に参上トヨハシレンジャー、チャンネル登録お願いします!──動画の最後、画面にそんな文字が表示されたとき、佳恵が携帯をブラックアウトさせた。その瞬間、依里子は慌てて店を出た。トヨハシレンジャー。トヨハシレンジャー。そう呟きながら真っ暗なアパートに帰ると、服を着替える前にまずその単語を検索した。

 そして、膨大に出てきた動画の海に溺れた。

 トヨハシレンジャーは、二十代半ばの男五人によるユーチューバー集団だ。登録者数は三百万人に迫っており、動画の総再生回数は十億回を超えている。

 赤色の髪の毛をしているメンバーがリーダー的存在のようで、そのほかの四人の男たちも含め、いかにも教室の中で大きな声を出しても許される人間たち、という雰囲気が滲み出ている。彼らは中学と高校の同級生で、非常に気心が知れた仲らしく、お互いの過去や家族についても知り尽くしているようだった。

 依里子はまず、佳恵が観ていた動画を探し当てた。想像通り、彼らは深夜のラーメン屋で、トッピング全部乗せの早食い対決をしていた。「深夜にこれは重い!」「マジきちい!」とか言いながらも、全員きちんと完食し、最下位だったメンバーは深夜の車中で全裸で一発ギャグをやらされていた。

 彼らは毎日、地元の豊橋で遊んでいた。ファミレスで全品頼んで結局食べきれなかったり、ジャンケンで負けたメンバーが吐くまで嫌いなものを食べてみたり、手作りのイカダで極寒の季節に川下りを試みて失敗したり、くじ引きで決めた怪しい服装で出歩いて誰が最後まで職質されないか競ってみたり、生きていくうえで必要のないことばかりに全力を注いでいた。

 その動画を観ている間、依里子は、何の感情も動かなかった。何の学びも得なかったし、ただただ時間を浪費し目を疲れさせているという感覚しかなかった。脳が溶け、音を立てて偏差値が落ちていく気がした。

 だけど、それでよかった。

 いつしか依里子は、毎日正午にアップされる動画を心待ちにするようになっていた。集中力が持続しない若い視聴者に向けて整えられた、たった七、八分の動画。何のためにもならない動画。だけど、それを観られる昼休憩の時間が、自分の命を二十四時間ずつ必死に延ばしてくれる、最後のてのひらのような気がした。

「お待たせしました」

 ごと、と、まるでレンガでも置くような音を立ててどんぶりが現れる。卵も、チャーシューも、もやしもキャベツもホウレンソウも、コーンも海苔もねぎも、何もかもが山盛りだ。立ち上る白い湯気が、オーロラのように輝いて見える。

 依里子はユーチューブを起動する。例の、早食い対決の動画を再生する。聴き慣れたオープニングの音が、脳幹をへなへなと柔らかく溶かす。

 この動画は、七分二十三秒。その間は、何にも考えなくていい。

 トヨハシレンジャーはよく、深夜に地元のラーメンチェーン店に行く。こんなの食べるから太るんだよ、とかぐちぐち言いながらも、一日中役に立たないことを撮影した仲間たちと楽しそうにどんぶりの底を見せ合う。

 そのチェーン店であるラーメンまんぷく堂が、東京進出を果たした。その一号店が、ここだ。

 画面に指先を当てる。一秒目が始まる。

【第一回まんぷく堂全部乗せ早食い対決、スタートォ!】

 両耳に流れ込んでくる声に合わせて、依里子は箸を割った。

 ごっそりと持ち上げた麺を、思い切り啜る。熱い。味が濃い。でも気にしていられない。だって早食い対決なのだから。右手で、氷水を近くに引き寄せる。ろくに咀嚼もせずに飲み込み、次々に麺を、具材を、口の中に放り込んでいく。

 明日から仕事、どうしよう。契約は一方的に切られて、次の派遣先は決まっていない。

【ヤバッ、テツロー早(はえ)え!】
【リョウタむせてっぞ、きたねえー!】

 夕方、実家から電話がかかってきていたけど、かけ直したくない。妹が二人目を産んだことに関係する話かもしれない。

【テツロー妨害しろ、妨害】
【おい、足蹴んな、ずりぃぞ!】

 こんな時間にラーメンなんか食べて、また太る。健康にも悪い。もう何年、人間ドックに行っていないだろう。

 でも、もういいや。依里子は、チャーシューにかじりつく。

 女性が女性として生きること。この時代に非正規雇用者として働くこと。結婚しない人生、子どもを持たない人生。平均年収の低下、社会保障制度の崩壊、介護問題、十年後になくなる職業、健康に長生きするための食事の摂り方、貧困格差ジェンダー。

 生きづらさ生きづらさ生きづらさ。毎日どこに目を向けても、何かしらの情報が目に入る。生き抜くために大切なこと、必要な知識、今から備えておくべきたくさんのもの。それらに触れるたび、生きていくことを諦めろ、そう言われている気持ちになる。

【三分経過~!】
【最下位だけはぜってえヤダ!】

 生きていくうえで何の意味もない、何のためにもならない情報に溺れているときだけ、息ができる。

 依里子は水を飲む。今砕かれた食べ物が細い喉を無理やり下っていく。

 ああ、動画が、あと三分十二秒で終わってしまう。その一秒後には、また、息継ぎのできない毎日が続くのだ。

【これ最下位リョウタじゃね!?】
【リョウタの罰ゲームとか貴重~!】

 それなりに空腹だったはずなのに、あっという間にお腹がいっぱいになってきた。依里子はどんぶりに架けるように箸を置く。げっぷが出て、早速、胃がもたれ始めているのを感じる。

【一番乗りっ! うまかったー!】
【俺二番~! くどいけどまんぷく堂はうめーなあ】

 両耳から流れ込んでくる男たちの声が、依里子の鼻の頭で混ざる。
 いいなあ。

 これを真夜中に食べきって、おいしいって言える生命体として駆け回ることができたら、この世界はどれだけ楽しいのだろうか。

【お、お、お、最下位、リョウタじゃね!?】

 小さな画面の中で毎秒更新されるような生きづらさがそもそも目に入らない一日を終えて、こんなふうに真夜中に仲間とラーメン屋に駈け込むことができたら。この世界は、どれだけ。

【タケヒコいけいけ、リョウタに罰ゲームやらせようぜ!】

 涙より一秒先に、鼻水が出てくる。手を伸ばしたメニュースタンドに、紙ナプキンは一枚も残っていない。

*   *   *

(続きは、『どうしても生きてる』本編にてお楽しみください)

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