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#3 今夜も隣室から「あの声」が…「負け組」の日常を描いた群像劇

AV・風俗専門のスカウトマン、「ノー」を言えないカラオケボックス店員、デブ専アダルト女優……。大都会・東京を舞台に「負け組」たち6人の日常をリレー形式で活写する、直木賞作家・奥田英朗さんの『ララピポ』。「下流文学」の白眉として評判となり、映画化もされました。第1話の主人公は、対人恐怖症のフリーライター。その冒頭をお楽しみください。

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翌日、博は玄関ドアのレンズを拭いた。内側も外側も、ガラスクリーナーを吹きつけ念入りに拭いた。試しにのぞいてみると、階段の輪郭がはっきりと映った。

ついでに電器店へ行き、廊下用に蛍光灯を買い求めた。業務用タイプのものだったので一千五百円もした。痛い出費だが仕方がない。そのぶん昼飯で節約した。外食をやめ、塩ラーメン二袋にした。

午後は少し足を延ばして遠くの大きな図書館へ行った。

博は昼間はもっぱら図書館で時間をつぶす。ほかに行くところがないからだ。ただし同じ図書館に二日続けては行かない。職員によほど暇な男なのかと思われるのがいやなので、四カ所の歩いて行ける図書館を日替わりで巡っているのだ。中には漫画を置いてある図書館もあり、『あしたのジョー』を一日がかりで読んだりする。

今日はその漫画のある図書館で、いつもの若いデブ女を見かけた。

不思議なもので、博と同じように図書館をローテーションしている人間がほかにも数人いた。普通の身なりをした普通の人たちだ。いずれも働き盛りと思しき年齢なのに、働いている様子がない。女もその一人だった。

もちろん無視する。不気味なので近寄ることも避けている。

ただ、この日はエレベーターで一緒になってしまった。デブのくせに化粧の匂いをさせていた。目が合い、あわてて顔を背けた。

閉館の七時まで『ブラック・ジャック』を読んで過ごした。

晩飯はご飯を炊き、卵やら納豆やらをかけて三杯食べた。博は今日の食費が安く済んだことに小さく満足していた。シャワーも早めに済ませた。

そうして上の住人が帰ってくるのを待った。ベッドに寝転がり、テレビをぼんやり眺めながら。

その夜も、男が帰ってきたのは深夜零時を過ぎてからだった。いつもより遅いので博は焦れていた。夫の帰りを待つ新妻の気持ちがわかった気がした。車が駐車場に停まり、ドアの閉まる音が二回したときはしあわせを感じたほどだった。

博はすぐさま玄関に走り、レンズから外をのぞいた。

前を横切る女の横顔が映った。照明が逆方向なので暗く陰っていたが、それでも悪くない女だということはわかった。男はやはり頭の悪そうなホスト風だ。

並んで階段を上がっていくとき男が女の腰に手を回した。それだけで博の股間は熱くうずいた。

ただ、昨日見た女のうしろ姿とはちがう印象を受けた。いくぶん背が高い気がしたのだ。もしかして別の女なのだろうか。

博は奥の部屋に戻ると上の階を見上げた。天井に耳を当て、会話を盗み聞きしたい衝動に駆られた。

なんとかできないものか。周りを見まわす。台所からコップを持ちだすと、椅子を部屋の真ん中に運んだ。

上に乗ってコップを天井に当てる。しかしそのコップの底に耳をつけることはできなかった。わずかに背が足りないのだ。

この天井を挟んだ上では、きっと色っぽい会話が交わされているのだろう。「いやーんエッチ」とか、「いいじゃんよォ」とか。

いても立ってもいられなくなった。足の下に電話帳でも敷くか。やってみる価値はある気がした。

電話帳を二冊、椅子に置いた。博はその上に乗った。さすがに不安定だ。姿勢にも無理がある。でも工夫の甲斐あって高さが足りるようになった。

コップの底に耳をつける。

(……ケンちゃんって結局はヤリたいだけなんじゃないのォ)

女の甘い声が聞こえた。博の心臓が早鐘を打つ。やったと思った。

男が何か言い返す。男の声は聞き取れなかった。

(……わたしだって一応女の子なんだからね)

そのすべてを聞き取ることはできない。けれど女の高い声はくっきりと聞こえてくるのだ。

一旦椅子から下り、はやる気持ちを落ち着かせようとした。

今日は、床の軋む音が始まる前からコップで盗み聞きしようと思った。きっと前戯のあえぎ声も聞こえるはずだ。

できることならセックスの最中のすべての声を聞きたい。「そこはダメ」とか「もっと」とか。

ベッドに腰を下ろしながら、博の膝はかすかに震えていた。毎晩新しい興奮がある。

我慢できなくてもう一度椅子に上がった。

(……いやーん、自分で脱ぐから触らないで)

脈がいっきに速くなった。若い女が、すぐ上で裸になろうとしている――。

博はズボンとパンツをまとめて下ろすと左手で性器を擦った。心臓の鼓動が鼓膜までをも震わせていた。

床がギュッと軋む音。おそらく二人がベッドに横たわった音だ。上で行われていることが手に取るようにわかった。性器は青竹のように反りかえっていた。

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しばらくして女のあえぎ声が聞こえた。

(あ……あ……)

あやうく射精しそうになり、博は深呼吸してこらえた。上がクライマックスのとき、自分もイキたい。飛び散った精液はどうするのか。そんなことはどうでもよかった。

頭を九十度に曲げての盗み聞きなので、すぐに首や肩の筋肉が張った。ふくらはぎも痛くなる。だからときどき椅子の背もたれに腰を下ろし休憩した。安全を考え、ズボンとパンツは脱ぐことにした。

上ではいよいよ床が軋み音を立てはじめた。

ギシッ、ギシッ、ギシッ。

悔しいことに、いちばん大きく聞こえてくる音はベッドが揺れる音だった。

けれどその隙間を縫うようにして女のあえぎ声もする。

そして肉と肉がぶつかる「パン、パン」という音までコップを通して聞こえた。

なんという臨場感なのか。博の興奮は最高潮に達した。

ゴトゴトという音がそのリズムを速くする。男の荒い息遣いまで伝わってきた。

博はたまらず射精した。乳白色のどろりとした液体が部屋の床に飛び散る。

次の瞬間、膝の力が抜けた。小さくよろけるとたちまち全身がバランスを崩し、博は床に転げ落ちた。

「いてててて」思わず声を発する。椅子も倒れていた。

視界に銀粉が舞っている。自分がどんな姿かもわからなかった。

怪我はないかと体のあちこちをチェックした。軽い打撲はあっても骨に異常はないようだった。

顔中から汗が噴きでている。尻餅をつく姿勢になり、てのひらで顔をこすったらヌルリという感触が指先に走った。

自分の精液が頬に付着していたのだ。

博はよろよろと起きあがると、台所へ歩き、顔を洗った。

下半身が丸だしだったので、そばにあったタオルで性器の先端を拭いた。その部分はまだ熱をはらんでいた。

最後は失敗したが博は満足だった。今夜は会話まで聞こえたのだ。

でも、椅子に乗るというのはちょっと危険かな。何か別のいい方法はないものだろうか。いっそのこと盗聴マイクを買うのはどうだろう。呼吸を整えながら、博はそんなことまで考えている。

腹が減ったのでドーナツを二個食べた。えもいわれぬ幸福感があった。

翌朝は九時前に目覚めた。何時まで寝ていてもいいのだが、ふと眠りから覚めたのだ。布団の中でじっとしていると二階から人の足音が聞こえた。

出かけるのかな、と博は思う。となるとゆうべ泊まった女の顔を見ることができる。

途端に気がはやった。布団を蹴りあげ、玄関へと歩く。ドアの前で待機した。しばらくして上の階でドアが開く音がして階段に靴音が響いた。

足音はひとつだった。どうやら女が一人で帰っていくようだ。

ドアのレンズに顔をくっつける。ハイヒールの底を鳴らして女が降りてきた。ヒップラインを強調した長めのスカートに上はGジャンを着ている。

いい女だと一目でわかった。また股間で性器が首をもたげる。

近づいてきた。いかにも夜の六本木あたりで遊んでいそうな若い女だ。

女はそのまま外へと出ていく。

博は大急ぎでジャージを脱いだ。ジーンズを穿き、トレーナーを頭から被った。

もっとはっきり女の顔を見ようと思った。魚眼レンズでは目鼻立ちまではわからない。行くのは駅の方向に決まっている。追いかけて、ゆうべ上の階の男に抱かれた女をしっかりと確認するのだ。

スニーカーをつっかけ、部屋を飛びだした。通りに出ると、女のうしろ姿が五十メートルほど先にあった。

博は駆けた。走るなんて何年ぶりだろう。たちまち息が切れた。途中で別の道に入り、駅へと先回りすることにした。

胸の動悸を静めながら駅の入り口で待っているとGジャンの女が現れた。涼しい顔で前方から歩いてくる。

最初にバストに目がいった。この女は豊かな乳房をしていた。

顔を見た。AV女優の藤村令奈に似ていた。

あの男はこの女とセックスをしたのか。この女がつい数時間前、自分のすぐ上で乱れまくっていたのか。

博は興奮を抑えることができなかった。性器がジーンズを押しあげていた。

女は博の存在に気づくこともなく、切符を買い、改札を抜けていった。

瞬間、尾行することを考えた。ポケットに手を突っ込む。小銭すら入っていなかった。

いや尾行はやり過ぎか。それをすると変態の領域に入ってしまう。

博は早足で自宅へと向かった。気が急いていた。

部屋へ入るなり、女の顔と体を思い浮かべながらマスターベーションをした。博は今日の女を「令奈」と名づけた。たぶん自分には一生縁のないタイプの女だ。それを思うと右手にいっそう力が入った。

昨夜出したばかりなのでさすがに勢いはなかったが、それでも快感は大きかった。

自然と笑みがこぼれてくる。


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【当たり】おめでとうございます!いいことありますように。
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