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花組『巡礼の年〜リスト・フェレンツ 魂の彷徨〜』『Fashionable Empire』記録

宝塚歌劇が好きです。
と言っても◯組の公演は絶対いっぱいチケ取るぞ!!!みたいな熱量まではなかった。んですが、今回もそのノリで花組さん『巡礼の年』のチケットを取ったところ尋常でなくハマってしまい、今は毎日ショパンのことばかり考えています。ということで次回の観劇に備え、登場人物(キャスト)別感想メインで初観劇の記録を残しておきたいと思います。

『巡礼の年』あらすじ

パリ社交界で人気と名声をほしいままにするハンガリー出身のピアニスト、フランツ・リスト。恋人ジョルジュ・サンドと野心を分かち合う彼の原体験は、届かない才能に対する幼少期の挫折だった。それは天才フレデリック・ショパンへの羨望として形をなす。パトロンのラプリュナレド伯爵夫人には「代わりはいる」と嘲られ、実力はショパンに及ばない。満たされないリストは自堕落な生活を送り、仲間の芸術家たちにも邪険に振る舞う。そんな時、自分の本心を見抜くような批評を書いたマリー・ダグー伯爵夫人に惹かれ、同じく空虚な思いをかかえていた彼女と共にパリから去る。
穏やかな生活を送る二人の元に、リストを心配した芸術家仲間がやってくる。自分の代わりにピアニスト・タールベルクが幅を利かせているとサンドに煽られたリストは一度きりとマリーに約束してパリへと戻り、素晴らしい演奏を見せる。しかし喝采に呑まれたリストはマリーの元に戻らず、ひたすらに栄光を求めヨーロッパを転々とし始める。

だいたいこんな感じですね。構図的には身分違いの恋のストーリーなんだけど、そこは意外と前に出てこないのが面白いです。

『巡礼の年』脚本について

◯「逃げる」ことのリアルに打たれる 
あらすじにある通り、物語の前半(いっそ1/3?)時点でリストとマリーは手に手を取ってパリから逃げ出す。求められた役割を演じることに疲れた二人はほぼ初対面で逃避行をきめます。個人的にはここで『眩耀の谷』の結末を思い出した。相手を打ち負かすことにこだわらず、自分たちが生きていける新天地を探す。勝負に勝つことはもちろん嬉しいことだけど、勝敗や順位がいつも明確にある世界、勝利することでのみ評価される世界に身を置き続けるのは辛いことだし、そこから降りることを肯定する物語が、自分はかなり好き。それをクライマックスの選択でなくある意味での前振りとして持ってきたのも面白い。

一方で、-fin-というわけにもいかないので当たり前ではあるけど、そこで終わらないのもリアリティを感じた。「魂を分けた」と歌った相手であるサンドの「逃げたままでいいのか」という問いは、もう一人の自分の思いでもある。逃げることについての名言はたくさんあるし、実際自分もそれに支えられたことがある。一方で、逃げ切った先にゴールがあるわけではなくて、そこからまた新しいスタートを切らなければいけない。そこでは「逃げたこと」と向き合わなければならない。

個人的な意見だけど、逃げて全てから解放されてハッピーエンド、というのは全部が全部逃げる前の相手(環境)が悪い、もしくは悪いと思える場合だけなんじゃないだろうか。少しでも自分の選択、自分の力が介入する余地があったと感じてしまったら、やっぱりわだかまりは残る。「パリを捨てたんじゃない、本当の自分を救ったんだ」みたいなことを宣ったリストにも、そんな思いがあったことは間違いない。

◯「逃げ」の道を否定する女性
それでも一度は競争社会を降りたリストのもとにやってきたのは、男装の女流作家ジョルジュ・サンド。魂の平穏を守ることを優先しようとするリストに、本当にそれでいいのかと問いかける。

リストに「本当の自分」を大事にすることを思い出させ、安らいだ時間をともにしたマリーが女性なら、その奥に燻る熱を呼び起こすサンドもまた女性。男性と肩を並べ男性のように装った、そうしないと芸術の場に立てなかった女性が、リストを競争社会に引き戻してしまったの、すごく悲しいし含んでるなーと思う。でも、「私は魂が傷つくことさえ恐れなかった」という言葉を聞いて、そもそもリストは魂が休める場所を求めていたのか?とも感じた。

◯リスト大暴走
そしてサンドの懇願に応え、再びパリへ戻るリスト。持ち前の技術で当然のようにタールベルクを打ち負かした上で、魂の平穏の中で作った曲を静かに奏でる。この歌がもう大受けで、観客は拍手喝采。ここまででもう一つのストーリーが完結しているけど、物語はそこで終わらず、リストの承認欲求が爆発し始める。(この作品わかりにくいって言われるゆえん、場合によってはクライマックスになるような場面が多々あるからじゃないだろうか)

◯リスト以外の思いは?
この作品、同じ時間軸に複数の場所・立場で物語が展開されるんだけど、一人称は基本リスト。リストのショパンへの思いが余すところなく噴出しているのに対して、ショパンがなにを考えてるのかは正直わからずじまいだった。ショパンはある種の偶像、リストのコンプレックスそのものの具現化であって、生きた人間としての組み立ては弱かったように思う。そしてこれは役者さんではなくて脚本の問題で、ショパンが心境を吐露する場面が最後しかなかったのが残念。それもなんか綺麗めだったし。

◯心象風景?
そして一番わからなくなったのがまああのシーンかなと思う。そもそも深く考えるものではないのかもしれないけど、時間軸や場所が全くつながらない。芸術家の「道」みたいなもの?水音がするのは胎内のイメージ?全然考えもまとまらないので、次回以降改めて考えたいと思います。

◯最後の演出
回転する舞台の上で、登場人物たちが少しだけ姿を見せて、消えていく演出がとても好きです。ちょっと違うけど、『今夜、ロマンス劇場で』でもあった。巡っていく断片、フランツとマリーが生きるように伯爵夫人も芸術家仲間も生きていくし、時が止まった人も、止まった時に寄り添った人もいる。それぞれの人生を垣間見られるようで、嘆息。

登場人物/キャストについて

◯フランツ・リスト(柚香光さん)
これまでわりと人間できてる(平和主義系)お役を見ることが多かったので、難ありキャラを演じられてる柚香さんは新鮮。ちょっと自棄気味で不健康な芸術家の姿がすごく似合う。病弱なのはショパンだけど、病的な美しさと言ったらいいのか。だから最初のサロンでの演奏会でもったいぶるシーン、説得力がすごい。
勲章でごてごてと飾り立てられて「愛する君に見せてあげたい」と歌うところ、認知の歪みにゾクゾクした。本当に心からマリーを好きで、今自分の喜びであるものを、マリーと分かち合いたい。最初に比べれば無邪気なまでの愛情表現が悲しかった。

◯マリー=ダグー伯爵夫人(星風まどかさん)
パリ社交界の衣装、最初見たときなに⁉︎と思った。
でも、例えばラプリュナレド伯爵夫人なんかは完全に板についている、というかものにしている。対して夫に同行することもあんまりない、不慣れなサロンで所在なさげにするマリーはなんとなく鬘に食われてる感じ。
鬘が社交界の正装だってわかるまではまさか今回の髪型ずっとこれ⁉︎とヒヤヒヤしたけど、まあ外す。で地毛の髪型もちゃんと変化する。
伯爵家の妻としての生活に馴染めないながらも律儀にきっちり結い上げていた髪を、リストといる時は背中に流れるままにしている。『アナと雪の女王』と同じ、「心の解放」のお馴染みのメタファー。なんだけど、ふんわりしたロングヘアのまどかちゃんが余りにも儚く美しく、見惚れた。マリーについては2回目観劇のほうが思うことがあったので、改めて。

◯フレデリック・ショパン(水美舞斗さん)
史実を見る限りショパンも陽性の人間ではなかったらしいけど、劇中では人望と才能(そして美貌)を兼ね備えた人物。髪を振り乱して鍵盤を叩くリストと、気品を醸し出す整った髪型で、みんなに囲まれながらピアノを弾くショパンの対比が鮮やか。自分が水美さんびいきであることを差し引いても、初日映像の中の水美さんは仄白く発光していて、それだけ特別な存在だったことが観客にも目に見えるようだった。髪色・衣装ともに落ち着いた濃いブラウンの色調で統一されているのがとても好きでした。

◯ジョルジュ・サンド(永久輝せあさん)
永久輝さんのジョルジュ・サンド、どえらい美しい。
ポスター確認と予習を怠ったため、最初「男装の女性」という設定を読み取れずただただ痩身の美しい男性だと思ってました。これまで見た男役さんの「女役」は、上半身の露出多めな衣装やロングスカートと、娘役さんがされるような格好が多かった。のですが、今回のサンドは服装だけならさして男役と変わらないのに、しなやかであでやか。男役さんが男装の女性を演じるのって、いい意味で認識がぐちゃぐちゃになる。低いけどやわらかな声色が、リストより少し年上の女性としてマッチしていて好きでした。

キャラクターとしては、ショパン同様、サンドも何を考えているのかわからなかった。ショパンはそこまで行動を起こしていないからいいとしても場をかき乱したりするサンドは余計わからず。
サンドのリストへのアプローチと、ショパンへのアプローチは真逆。隠居したリストにはハッパをかけ、パリに居続けようとしたショパンを半分無理やりジュネーブに連れて行く。最初は、サンドは芸術そのものを愛するタイプの人なのかなと思った。自身も芸術家でありながら芸術を熱烈に愛し、だから異なる種類の芸術家をも愛する。でもどちらかと言えば、芸術家がもともと志向した芸術を完遂させるためにもっとも合ってる・望む方向へ連れて行きたい人、というほうがしっくりくる。だから野心を燻らせながら芸術の場から離れたリストをパリへ呼び戻そうとしたし、野心とは無縁だったショパンが義務感で命をすり減らしていくのを見ていられなかったのか、逃避行をやる。自分の思いに正直で、でも愛情深い人なんだろうなと思った。

○ラプリュナレド伯爵夫人(音くり寿さん)
存在感が凄まじい。
音くりさんが舞台にいると、自然と視線が引き寄せられる。今どんな表情をしているのか見たくなっちゃう。今作で退団なのが本当に惜しくて惜しくて仕方がない。

前作の『元禄バロックロック』では無邪気ゆえに残酷な幼い将軍ツナヨシを演じられていた。娘役の方だと知った時は、こんな比重強めの、しかも少年の役を娘役さんが⁉︎と仰天した(男役さんが女性の役・娘役さんが少年の役をやることもあるという文化にまだ疎い)。『アウグストゥス』の時はまだお名前も存じ上げておらず、生観劇ではスポットを当てられていなかった。でも初日映像を見返すたび、カエサルに促されて壇上に上がるアントニウスが、はにかむ可憐な女性の手をとるシーンが毎回印象に残る。あのたおやかでかわいらしいオクタヴィアが音くり寿さんだったんだ、と気づいた時は驚いた。

今回の作品では傲慢かつ束縛の強いサロンの主。特に印象に残っているのは、やっぱりリストとマリーの駆け落ち後の、パリの社交界の人々のアンサンブル。パリの既婚女性たちにとって、若く美しく才能ある男をそばにとどめておけることは、そのまま自分の地位と名誉、そして女としての魅力を担保していたんだと思う。その男が自分以外の女と逃げた日には面子まる潰れなわけだけど、この時の音さんの顔がもーーー怖くて。どちらかといえば幼さのあるお顔立ちかと思うけど、凄みのある表情から目が離せず。個人的には愛していた男に裏切られたというよりは、飼い犬に手を噛まれたという方がぴったりきた。凍るような目つき、表情だけでビリビリと伝わる怒りに魅入られました。

でも、リストがタールベルクを完膚なきまでに叩き潰そうとしたときは止める。そして、そもそも一度自分から去った男にすがりつくなんて彼女のプライドが許さなかっただろうけど、「やっぱり戻ってきて!」と掌を返してリストを寵愛しようとしたりはしない。彼女の人間らしさとプライドが垣間見えてよかったです。最後のシーンでもタールベルクとそれなりに楽しげにやっているようで安心しました。

可憐で儚げなオクタヴィア。
賢いけど幼くわがまま寄りなツナヨシ。
そしてラプリュナレド伯爵夫人。
三作品とも全然違う人物像を、見事に演じられていた音さん。名前と顔が一致した方が退団されるのは、これが初めて。すごく寂しいですが、願わくば今後も、素晴らしい演技や歌を私たちにも見せていただけると嬉しいです。

書き逃し

ショーについては2回目の方がじっくり見られたので、改めて書きます。が、フィナーレのデュエダンの衣装のことだけ先に!!!濃い茶色にミントの差し色が、落ち着いているけど全然地味じゃなくてめちゃくちゃ綺麗でした。

以上、ショパンにあまりにもよろめいたという記録でした。ただショパンは名前が有名すぎて、実在の人間として認識できすぎているので、さすがにブレーキがかかりますね。2回目感想は史実と照らし合わせながら書いてみたいです。

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