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沖縄に移住した話

山口県岩国市に生まれ、19歳の時に地元を離れ大阪に出た。10年以上住んですっかり大阪に定着していたけど、32歳の晩秋に沖縄へ移住してきた。

「沖縄が大好き!移住が憧れ!」などといった理由ではなく、一番は「妻の地元だから」引っ越してきた。

そう書いてしまえばあっさりしたものだけど、自分なりに移住するかどうかは悩んだな〜と思う。悩んでなさそうな素振りはしてたけど。てへ。

沖縄に来て1年。移住しても不自由なく過ごせている。我ながらたくましい。移住を決めた経緯と、何が決め手だったのか。ツラツラと。

決め手① 大阪に居続ける必要性?

そもそもといえば、結婚した後にふと「大阪にいる必要性がないのでは?」という発想がふたりの中に出てきた。

10年を超える付き合いをしてくれている仲間がいたり、なんでもある都会だし、人は面白いし街も面白い。ご飯もうまいし安い。わなかのたこ焼き(塩)はマジで最高。住みやすい。仕事もある程度安定してきて、食うに困らない程度にはきちんと二人でやって来た。特に不自由はなかった。

でも気付いたら、仕事をして時々みんなと遊んでを繰り返して、なんとなく居ついてしまっている状況だった。

そんな中、将来を考えた時に二人で共通する夢の一つに、「子どもを持つ事」という夢があった。がしかし、二人して不安だった。

「大阪で子どもを子育てをするイメージが湧かない。。」

今や中学校は廃校になってしまった山口の田舎で、犬を連れて山を駆けずり回って育った僕が、赤子を連れて電車に乗って人混みハンパない都会に繰り出して、誘惑いっぱいの都会で子育て。なんて難易度が高いんだ!恐ろしや!!

いやね、周りは大阪で育った人だらけだし、都会だってなんの問題もないのは十分にわかってる。けどさ、とにかく不安しかなかったのよ。僕には。田舎の坊主頭くんだったからさ。

それは妻も同じで、都会で子育てしてるイメージが湧かないと。そりゃそうだ。いくら僕よりシティガールだったと言ってもOSAKAと比べちゃいかんですよ。

そんな話をした結果、

・子どもができる前に、先に動いてしまうのもアリでは?

・なんとなく今の仕事を続けているけど、転職するなら早いうちがいいよね。

・子育てするなら親元の近くがいい。

という所に落ち着いた。

決め手② どっちの親元に行く?

上の2つに関しては即決で「アリでしょ、今でしょ、動こうぜ」となった。

残る「親元の近くがいい」とは言ったものの、どっちの?ともちろんなる。僕は迷う事なく「妻の親元へ」と考えていた。

一番は、妻にとって右も左もわからない、僕の地元に連れて行くのが嫌だった。

妻が大阪に転がり込んできた時は、共通の友達がいて妻を歓迎してくれて、そこから徐々に輪を広げていった妻。気付いたらめちゃくちゃでっかい輪ができてて、この人はすごい!と思った。

しかし僕の地元はそういうわけにはいかない。妻が知ってる人といえば僕の親族と近所のおばちゃんとおじちゃん。片手で足りるほど少ない。それに僕も早くから実家を離れていた事もあり、地元の同級生等とは全く連絡を取っておらず、妻に同世代の人たちを紹介できない。

きっと妻なら仕事をしながら自分でコミュニティを作り上げて、「大丈夫だよ!楽しいよ!」と言って過ごしてくれるだろうが、彼女の負担はとんでもなく大きくなってしまう。黙って俺について来い、とは言えなかった。

逆に、妻の地元である沖縄はどうだろう。

妻には付き合いの深い友達もいて、付き合い始めた当初から僕もその輪に入れてもらって、気づけばとっても仲良くさせてもらっている。

いつか子育てをすると思ったら、近くに頼れる友達、兄弟、親がいるということは妻にとって負担減になるはず。と思っていた。大阪のコミュニティがゼロになるわけではないし新しい土地でも問題ない。僕の負担なんてどうだっていい、自分のことは自分でやってやるさ。と心に決めていた。

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ところがどっこい僕も長男坊。立派な一軒家を親父が一生懸命働いて建てた。代々伝わる我が家のお墓もある。

15歳で実家にいたくないがために寮がある高専へ行き、突然大阪に行くと言い出し、気付いたら30歳を過ぎていた。いつまでも戻らずフラフラしてていいのかぁぁぁぁぐぬぬ〜??という事も考えていたが、そこはさすが僕の両親。

「げんたろうが元気でいてくれたらそれでいい。土地に執着する必要はない。思うようにしたらいいよ。」と背中を押してくれた。

話を聞けば、両親ともに地元に生まれ地元に育ち、大人になった頃にはその土地に根付いてしまった。家を建てたのも、親(僕の祖父母)がいるからそうするほかなかった。ここにいないといけなかった、と。

私たちが死んだら土地も家も好きにしていい、墓仕舞いもしていい。今は時代が違うんだから、私たちが捕われていた分あんた達は外の世界にドンドン触れて欲しい。と言ってくれた。老人ホームに入る時に印鑑押しに来てくれと笑っていた。

年に数回しか帰ることはできていないが、母はその度に嬉しそうにしてくれるし、親父も無愛想ながら喜んでくれているらしい。味の濃いすき焼きとたくさんのビールで歓迎してくれる。2人で旅行にもたくさん行っているみたいだ。結局のところ最後は両親に救われている。本当にいい親の元で育った。いつか家族の話も書き残したいな。

決め手③ 世界を広げたい

なんだか僕がすごく気遣いできるマンになってしまったけど、もう一つの理由は完全な僕の好奇心。

自分の世界を広げたかった。新しい場所に住むこと、新しい仕事をすること、新しい人に出会うこと、をやりたかった。母が僕に言ったことは僕自身の希望でもあった。

極端な話だけど、いつ死んでしまうかなんてわからない。それに今月にもう34歳になる。人生そこそこ平均的に生きたとして、残り40〜50年。あっという間だろこんなの。じゃあできる事はやろうよ、温存なんてしてないで。飛び込んでみようよ何があるかわからないけど。絶対楽しいし、なんとかなるから。とエラく前向きに考えている。ドラクエのばんのうぐすりは最後まで温存して結局使わない派だけど。

過去に、周りが何も見えなくなった事がある。とっても小さな世界の中で生きてしまい、絶望していた。この時の事はまたの機会に書き残したいと思ってるけど、今思えばバネが縮んでいた時期なのかもしれない。今は世界があまりにも大きい。

小さな世界から抜け出ししばらくして、初めての海外旅行・アメリカ。新婚旅行で訪れた。とっても刺激的で楽しくて、怖い事なんかなかった。こんなに面白いんだ世界は。と感じて、もっと見なければいけない!!と強く思った。今思えば価値観の転機だったのかもしれない。

そんな中で「沖縄に住む」ができるチャンスが来たならば乗らないわけにはいかない。やってやれねぇもんはねぇ!

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沖縄滞在中

住処の事や妻の仕事の面、諸々良いタイミングも重なりスルスルと沖縄行き決定。沖縄行きが決まったからこその大阪での新しい出会いと刺激もあった。大阪ラスト1年は濃い1年だった。

今のところ不自由なく楽しんで生活できている。引っ越さないとわからなかった部分をたくさん見る事ができて、とても面白い。義両親も一人娘が帰ってきて嬉しそうにしてくれてよかった。僕も息子のように接してもらえている。愛犬も迎える事ができた。毎日のお散歩が楽しい。

ちなみに沖縄に永住するか、と言われたら、わからないと答える。沖縄にいても良いし、チャンスがあるなら別の場所へ、なんなら海外に住んでもいいとすら思っている。英語もまともにできないけど、今の時代だ問題ない。

しばらくはここにいると思うけど、おもしろがる事を忘れずに、視野は広く、前を見て。フットワークは最軽量で。


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