#1 気まぐれ連載
一体何年ぶりになるのだろうか。その日は本当に安らかな朝を迎えた。
僕はアラームの不快な音を聞くこともなく目を覚まし、洗面所に行って顔を洗い、クリームをつけてひげを剃った。そんな毎日変わらない作業でさえ、妙に愛おしく思える朝だった。それからお気に入りのプレイリストをかけてリビングへ行き、さぁ朝食でも作ろうかと思ったところで、キッチンに立つ彼女を視界に捉えた。
野菜をざくざく切ったり、鍋で湯を沸かしたりと忙しくしていたが、僕に気づくと「おはよう」と言った。
「おはよう」
「早いね」
彼女はそう言い、やたら朝が似合う笑みを見せた。
「君もラジオ体操のおじいちゃんみたいに早いよ」
僕がそう言うと、「せめておばあちゃんにして」と笑いながら「朝は結構強いの」と言った。 その光景に思わず、世の中には、毎朝こんな気持ちで過ごしている人類が本当に存在するんだなと、本気で感心してしまった。
「キッチン勝手に使っちゃってごめんね」
「気にしなさんな、好きなものを作ってください」
僕はそう言いながらも、ハムエッグを作りなさいと強く念じた。
「へいへい、ありがたき幸せだに〜」
彼女はそう言うと、鼻歌を歌いながらフライパンに油を塗った。
よしよしこれはハムエッグに違いない。僕はそう思いながら安心してコーヒーメーカーのスイッチを押し、トースターに食パンをセットした。
「あ、私の分も入れてくださいよ」
「わかってますよ」
「しかし都築くん、私はいろんな家に転がり込んできたけど、冷蔵庫にベーコンと卵がきちんと揃っているお宅を初めて見たよ。しかも一人暮らしで」
「ハムもあるよ」
「気持ち悪いくらい素晴らしいラインナップだ」
「それは褒めてるのか貶してるのか」
「もちろん褒めてるよ。それにこのキッチンすごく使いやすい」
「キッチンで部屋を決めたんだ。古いマンションだけど、そこだけはいいでしょう」
「うん、素直に羨ましい。四つ口コンロは私の人生のゴールテープなんだ」
「何のこっちゃよーわからんわ」
僕はそう言いながら、遮光のカーテンと大窓を開けた。
初夏の少し湿気った風と晴天の日差しが入り込み、新緑のケヤキ並木からは雀の声が聞こえた。そのあまりに日常的で平和的な光景を、どうにか鮮明に留めておきたくて、しばらく座って眺めていた。
そしてふと、昔のことを思い出した。その時僕は日の入り前の海辺で、確かこんな気分で誰かの横顔を眺めていた。きっと今と同じような気持ちで、しっかりと目に焼き付けた筈だけれど、そこにはすっかり靄がかかり、穴が空いてしまっている。
「ねぇ、はちみつってある?」
穴の向こうからそんな声が聞こえたと思ったら、彼女は棚のガサ入れを始めていた。
「んー、確か右側の一番上」
「ここ?」
「そこ。ごめん固まってるかも」
僕は立ち上がり、焼けたトーストにバナナのスライスをのせ、温かいコーヒーを飲んだ。
「あー、こりゃ固まってるわ」
彼女は笑った。
「ごめん」
僕も笑った。それからスマホを開いてネットニュースに目を通し、また笑った。
【ヘッドライン】
日経平均株価 1000円超値下がり
殺人蚊の波、ヨーロッパへ
俳優高場慶彦さん、結婚
相鉄線人身事故、各路線に影響
目黒区のマンションで変死体
特殊詐欺グループの4人、神奈川県で逮捕
熟年不倫、修羅場の逮捕劇
猫のはなちゃん駅長に就任
交際相手暴行、外国籍男性を逮捕
深刻な話題の隙間に挟まれて申し訳なさそうにしている気の抜けたニュースに、妙な愛らしさを感じた。これも朝のせいなのだろうか。
「何で笑ってるの」
「いや、何でも」
「何でもなくて人は笑わないでしょう」
「そうかな」
「そうですよ」
彼女はそう言い、気持ちの良い笑みを見せると、僕の上に跨って優しくキスをした。
殺人蚊がヨーロッパの人々に地獄のような苦しみを与えて殺害したニュースが流れても、僕は涙を流すどころか、こうして笑っている。たとえネガティブな状態だろうと、「そうか、また死んだのか。これは自分もしっかり予防しなきゃな」くらいにしか思わないだろう。
神経が擦り切れるほど考えた末、自ら死を選んで線路に身を投げた人間のニュースが流れても、僕は涙を流すどころか、こうして笑っている。たとえネガティブな状態だろうと、「そうか、また死んだのか。どうか通勤に影響が出ないといいな」くらいにしか思わないだろう。
もしかすると、その人はクロアチアで良くしてくれたボート貸しのおじさんかもしれない。もしかすると、その人は学生時代たくさんのウィットを交えて講義をしてくれた教授かもしれない。
当たり前の話だが、そんなこといちいち考えてちゃ生活ができない。 この世からは毎日10万人以上の人類が消えている。
でも、昔の自分なら間違いなく、そのヘッドラインの詳細を調べる筈だ。
せめて自分の視界に入るものくらいは知り尽くしたいと思った筈だ。
知らずに後悔をしないように。
恋人の元交際相手の性癖から自分の人生の意味まで知りたがっていた彼は、細胞の新陳代謝とともに消えてしまったのだろうか。
今の僕は目の前にいる彼女の年齢はおろか、名前すら知らない。知りたいとも思わない。
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