見出し画像

「あの夏へ」~散った先人を偲ぶ季節

序文

梅雨が早めに明け、早くも夏が、今年は6月の内にやって来た。
皆、暑さに慣れていないので、夏バテ気味の友人や知人も多い。

夏が来る、ということは、
当然、8月15日の終戦記念日もやって来る。

本年は終戦から、77年目だ。
『戦争での非人道的蛮行』は、人類の有史以前から、常に隣り合わせであった。
青銅や鉄、石弩、火薬、銃火器、大砲、ダイナマイト、機関銃、毒ガス、戦車、自動小銃、原子・水素爆弾、大陸間弾道ミサイル(ICBM)など、無数の殺戮兵器が、人類の歴史と共に、劇的に進化していった。
一般市民への残虐行為は、ヨーロッパ中世の「十字軍遠征」、カトリック国家とプロテスタント国家とが、血みどろの戦いを繰り広げた一大国際間戦争「三十年戦争」などが、初期の事例として列挙できる。

序文はこれくらいにして、本編の「太平洋戦争」に話を戻そう。

肉親と太平洋戦争

~曾祖父の場合

祖母方の曾祖父は、戦争時にはもう中年だったが、徴兵された。
生業は「宮大工」だったので、南方の戦地で櫓施設等の設営に当たっていたらしい(前線で敵と戦うのもあっただろうが、主な役割は「工兵」だったと思われる)。しかし、そこに敵機が空爆を行い、図らずも曾祖父は、その爆撃時の爆風により戦死した。祖母が話すには、「その際、周りに他の兵士が2人ほどいたそうだが、落命したのは、うちの爺さんだけだったんだ」とのことだった。

~祖父の場合

私の祖父母(両名とも故人)は、夫婦揃って、あの戦争に翻弄された世代である。
祖父は当時、出身地最寄りの街(越後高田)の師範学校に在学中。
祖父は生まれつき、身体はあまり優良ではなかったが、招集・徴兵の憂き目に遭った。まだ幸いだったのは、師範学校が徴兵対象校のリストの下位クラスだったので、徴兵された時期が大分、戦争の末期だったことである。但し、理系学科(数学、理科)の在籍でなかったため、召集令状(赤紙)は手元に届き、入営はしたようだ。

しかし、1945(昭和20)年8月15日正午に、昭和天皇の肉声による「終戦の詔勅」が、日本全国にラジオ放送され、祖父は前線に送られることなく、無事に復員することが出来た。まさに、「不幸中の幸い」である。

~祖母の場合

祖母は女子師範学校生(長岡女子師範)だった。彼女は、本土空襲の中でも凄惨を極めた1945(昭和20)年8月1日深夜にあった「長岡空襲」の生存者でもある。
長岡市は新潟県第二の都市であり、真珠湾攻撃を指揮・立案した、山本五十六連合艦隊司令長官・海軍元帥の地元でもあったため、B29爆撃機「スーパーフォートレス」の大編隊で襲来した米空軍は、執拗かつ徹底的な無差別爆撃を実行した。
引用元からの記述を借りると、『925トンものE46集束(しゅうそく)焼夷弾等が投下され、163,000発余りの焼夷爆弾や子弾(しだん)が豪雨のように降りそそぎ、長岡を焼き払った』のである。
まだ、中学に上がる前、祖母に「この空襲について、聞き取りをしたい」と申し出たら、「よし分かった。だが本当に嫌な記憶なので、後にも先にも、今の一回しか話さないので、よく聴くように」と前置きして、祖母は語り始めた。
予想した以上に壮絶な体験が、祖母の口から語られた。
女子師範のクラスメイトの友人に、あまり身体の強くない子がいたらしいのだが、空襲の際に逃げ込んだ防空壕の入口に、運悪く焼夷弾が着弾し、彼女は「生き埋め」になってしまったそうだ。
また、祖母の実家は、長岡から大きな峠をひとつ越えた集落にあったのだが、曾祖母は祖母の安否があまりにも心配で、夜通し徒歩で長岡まで歩き(現在の道でも、累計6時間近くかかる)、全寮制で暮らしていた祖母の無事を確認しに来たらしい。
また祖母は、早めにクラスメイトらとともに、安全な高台へと避難したそうなのだが、夜通し米軍の空襲を受ける長岡の街が火の海になるのを、言いようのない喪失感と共に、ただ呆然と見ていたそうだ。
祖母は師範学校での勉学を、大変楽しみにしていた。私に話したところに寄ると、「理科の実験を行なえることに大変、知的好奇心を持っていた」そうである。しかし、そんな祖母のささやかな願いは叶えられず、終戦・卒業となってしまった。
まだ存命の頃、師範生時代に催行された帝都修学旅行の写真を、私に見せてくれたことがある。現在の「皇居」がまだ、「宮城(きゅうじょう)」と呼ばれていた時代の話である。
祖母は事あるごとに、「自分は優等生ではなかった」と私に言っていたが、「せっかく地元で当時の女子が入学出来る、一番いい学校に行ったのに、実家でも散々やらされた『畑打ち』で、貴重な四年間が終わってしまったんだ」と、自虐的に話していた祖母の無念さは、察するにあまりある。
自分の学びたい分野が、努力してそのステージに上がれたら、心置きなく研究に没頭できる、そんな高校・大学生活が全うできた私は、何にも代えがたい貴重な経験が出来たと言えるのだろう。

「77年後」という数字

この記事を書いている際、調べてハッとしたのだが、日本史の大きなターニングポイントであった戊辰戦争(明治元年・1868)から、この終戦の年(昭和20年・1945)は、77年後だったのである。
そして、先記の通り、本年はその終戦から、さらに77年後である。これは決して、単なる偶然ではないだろう。

まとめ

SNS等で、令和の大学生・高校生と交流すると、「自分の祖父母は、戦争経験者ではありません」と話す世代が多いことに、大変に驚く。
自分の世代では、祖父母が戦争を経験しているのは、ごく当たり前であったからだ。
一連の「オウム真理教カルト事件」もそうだが、実際に経験・来歴を見た世代が、社会の主役から世代交代することによって、確実に「語り継ぎ」の機運は薄れていく。
そんな祖母も、三年前の早春に鬼籍に入ってしまったが、子どもながらも直接、聴き取りをした私たちの世代が、戦死した曾祖父の無念さ・翻弄された祖父母の思いを、確実に後世にも伝えていかなければならないのである。

初めての国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑への参拝

国立・千鳥ヶ淵戦没者墓苑の献花台
旧満州・朝鮮半島からの引揚者、シベリア抑留者の慰霊碑

本年6月11日、皇居外堀の散歩をあらかた終えた後、かねてからの希望であった、千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れた。
白菊をお供えして、静かに手を合わせると「戦死した曾祖父の菩提を弔いに、やっと参拝できた」という想いと、先の戦争の凄惨極まる経緯(特に民間人の犠牲)、また目下のウクライナ侵略戦争での、非人道的な数々な戦争犯罪などを思い出して感極まり、しばしさめざめと落涙した。

サウンドトラック

反戦歌で、プレイリストをコンパイルしてみた。
メディアで出てくるのも、祖父母が現役時代だった昭和時代に比べてめっきり減った感があるが、若い世代にも是非、このような作品に触れて頂きたい。

(終筆!ご精読ありがとうございました。)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?