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初めての大同1979その印象 私がGENの活動に参加する以前の状況 by 前中久行(GEN代表)

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私がGENと関わるようになったのは1994年です。中国の乾燥地に興味をもったきっかけとちらっと通り過ぎた当時の内蒙古や大同の様子についてお話しします。
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 私が初めて大同へ行ったのは1979年、内蒙古自治区フフホトへの旅行のおまけとしての雲崗石窟でした。
 内蒙古では、オルドスの砂地と大青山の草地にちょっと触れただけでしたが、乾燥地域の植物の印象は強烈でした。砂漠あるいは砂漠化した地域は植物が貧弱との予想が見事に裏切られました。野生の草本植物は種類が多く、しかもそれぞれが乾燥や寒冷、家畜の喫食に適応しており、形態や生態が多様で面白いのです。また、道路沿いや家の周辺には、大きなポプラが亭々としており、場所により樹木が育つ条件はあることも分かりました。

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 大同ではというとフフホトでの興奮と通例にもれないお腹の不調のため記憶は鮮明ではないのですが、街中に酢の匂いがただよっていたこと、雲崗の石窟ではガイドの話が長くて雲崗の主目的としていた第20窟の石仏にあたる太陽光線の角度が気になっていたこと(そのため今も自宅に飾っている20窟の写真の仏様のお顔半分が影になっています)、さらに外国人の入域が認められた当初で、外国人が珍しく私たちはまさに人寄せパンダ状態でした。とくに女性の服装や化粧に関心があるようで周りに人垣ができました(中国ではパンダは珍しくないので、なににたとえて人寄せ○○○的な表現をするのでしょうか?)。
 鮮明な印象として、やや距離のある農地の一角に雲が漂っているようにみえました。ちかづいてみるとキャベツが植えられていました。それにモンシロチョウが集まり、飛び交う成虫が雲のようにみえたのでした。農薬は使われていなかったのでしょう。チョウチョにとっての天国でした。地面をみると穴だらけのキャベツがありました。丁寧に掃除すれば人間が食べる部分は残っているようでした。
 中国の半乾燥地への旅で私は強い印象を受けました。当時の現地の農牧業は、多量の肥料と農薬を投下する日本の農業に比べて生産性は低いけれども生態的には健全と思いました。これ以来中国や砂漠化に関する資料を集め、人的ネットワークを広げました。1990年以後10年間はほぼ毎年内蒙古自治区へ緑化植物の調査に行きました。中国の研究者に「ここで研究したことは日本の砂漠緑化にどのように役立つのか?」と質問されました。そんなことを考えたことはありませんでした。私の語学力では「日本には砂漠はない」と答えるのが精一杯でした。しかし振り返ってみると乾燥地域と比較することで日本を含む他地域の植物の特性がよくわかりました。なかでも人間と自然との関係への理解が深まったことが大きな収穫でした。
 大同は北京~フフホトの行き帰りに列車で通り過ぎるだけでしたが、1994年に高見さんから大同をみてほしいと連絡がありました。大同あたりに多少でも土地勘のある人ということで声がかかったのでしょう。私と緑の地球ネットワークとの関係はこの時に始まります。それ以後については次の機会に改めて。

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